それは、自分がどこの道に進もうかを決める、キーポイントになったりもする。
学校という施設内だけで勉学してきたクラスメンバーが、いきなり未訪問の地へ移動し、いきなり宿泊を共にするのだから、青年の心に与えるインパクトは大きい。
家族旅行と決定的に違うのは、社会性集団の旅行という点である。
就職、進学を目前に控え、まだ見ぬ将来の不安と迷い、そんな霧の中に個人個人が立っているわけだが、そういう状況下、ある日、鉄道やバスに一気に詰め込み、一気にいつもと違う黒板の無い場所へ運ばれてしまうのである。
ぬくもりで過ごしてきた家庭とのつながりを断ち切られ、社会のメンバーとしての自覚を否が応でも、芽生えさせられてしまう。
その地で見たり、味わったり、触れたりしたもの、そして友の顔は、何十年たっても心に残る。
そして、修学旅行の体験は、眠っていた心の奥の箱を開けてしまう。
ある人は、「大都会のダイナミックさに感動した。私、東京に行く。」
そして、彼女は東京へ進学した。
ある人は、「どこに行ってもつまんなかった。」
彼は、地元で教師になった。
そして、僕は、「なんて、上高地の冬景色と森林の匂いは神秘的なんだろう。」
1年後、クライマーになって、穂高を目指し、上高地を通過した。
今は、海外への修学旅行や、体験学習が多いから、心の奥の箱から、もっとバラエティーな未来が飛び出して行ってるのだろう。
修学旅行から帰ってきた高3の娘に、「楽しかった?」と尋ねたら、「うん。」というだけ。
そうでもなかったようだ。
「どうしてうちの学校の生徒はあんなに冷たいんだろう。」と母親につぶやいている。
よく聞くと、クラスに嫌われている女の子がいて、修学旅行中、ずっと無視され、誰も仲間に入れてあげようとしなかった、らしい。
娘は、「旅行中、ずーっと、その子についてあげてた。ほんとにみんな自分勝手で酷いんだから。」と嘆いている。
それは、みやげ話も無いはず。
「楽しいはずの修学旅行を、その子は暗い気持ちで過ごしていたら、嫌な思いでしか残らないもんね。」
「いいコトしたね。」
といったら。
「うん。」
と答えただけだった。
娘の修学旅行は、こうして、みんなとハシャギ回ることなく、もどかしい気持ちのまま、終わったようだ。
嫌われっ子よりも、つまんなかったことだろう。
そんな、景色どころでは無かった娘だが、彼女なりに「心の奥の箱」を開けたことだろう。
今日も、クラスの別の仲間と長電話している。
修学旅行は、「心の就活」なのかもしれないなあ。
修学旅行を企画提案してみた昔の名も無きパイオニアの方に、この話を持って、感謝したいと思う。