自分をとことん追い詰めて神に人々の幸福を祈るのが私たちなのだと先生は仰った。
中には命を賭けて行に励む者もいる。それが神道と修験の狭間に生きる我々の世界だ。
尤も私はまだ見習いの新人に過ぎない。偉そうなことは言えないが、この世界に入ることは運命だったのだと、これまでの苦難の経緯から自覚している。
人々の幸福を祈ることは即ち、自らの幸福は二の次になる。
欲を持たないことが究極の欲だと老子は言う。だが欲が全くなければ人は生き甲斐を失くす。二宮尊徳の言う大欲と小欲の概念から見れば自らの満足を求めるのは小欲だ。大切な誰かと一緒に居たいと想う気持ちも浅はかな欲なのかもしれない。
だから、大義に生きた偉人たちは自らの意思で家族を持たない人も多かった。
国家や理念の為に生き、それ以外は地上に何の執着も残さない。そんな生き方を、誘惑だらけの現代で体現することなど、果たしてできるのだろうか。
神職、僧侶、聖職者、これらは人々に規範を示す職業だ。だからこそこの職業に就きながら犯す過ちは一般の人々よりも罪が重くなる。
風俗狂いの神職や、暴力を振りかざす僧侶などこの世界にいるとよく聞く。宗教家の風上にも置けない連中が偉い立場に多く居座っているこの世界で、至誠を貫徹するのは覚悟が必要だ。
幸い私がお世話になり、修行させて頂いている神社では、真の信心を持つ方々に囲まれていて、良きお手本を示して下さる人たちに師事している。
私はこの先も長らくここで修行に励み、その先は人々の平和と幸福の為に奔走したい。
私たちの知らない目に見えぬ所で、世の人々が救われるよう毎日神に祈り、多くの人々の想いを神仏へと取り繋いで来た先達がいた。
神に祈られたって自分は大変な思いをしていると殆どの一般人は考えるだろう。しかし祈りが神に通じた結果、大波が小波になってこの程度の苦労で済んでいることに誰も気づかない。
誰にも気付かれぬところで神に祈り人々を幸福にする存在、その存在に助けられてきた私は、今度はその存在に自らがなろうとしている。
迷いは無い。あとは未練や執着を絶って、進むべき道に邁進するだけだ。