中越地震10年:700キロ離れた地から…遺族支えた交流

青木さんからの絵手紙を広げる信子さん。信子さんが送った野菜や米などを絵にして、感謝の言葉を添えている=新潟県長岡市で2014年10月13日、鈴木梢撮影

毎日新聞

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青木さんからの絵手紙を広げる信子さん。信子さんが送った野菜や米などを絵にして、感謝の言葉を添えている=新潟県長岡市で2014年10月13日、鈴木梢撮影

 新潟県の旧山古志村(現長岡市)が全村避難を強いられた2004年10月23日の中越地震で、一人の若い村職員が過労死した。その記事を読んだ見ず知らずの松山市の女性が遺族に線香を送り、悲しみに沈む母親の心を支えた。700キロの距離を超えて始まった交流は今も続いている。【鈴木梢】

 亡くなったのは、旧山古志村職員の星野恵治さん(当時32歳)。水道係で、被災した家族が身を寄せる知人宅に戻らず、避難所だった長岡市の体育館のロビーで寝泊まりしていた。

 私(記者)は地震から3週間後に取材応援で同市に入り、彼に話を聞いた。作業着姿で首にタオルを巻き、昼夜を問わず被災者の世話できびきびと動いていた。明るく振る舞っていたが、避難所を離れると、3カ月前に完成したばかりの上水道が全壊したことを嘆いた。それでも私の背中を押した。「災害に負けていない村の人間を全国に伝えてくれ」

 被災地を離れ持ち場に戻った同年12月、星野さんの死を知った。12月21日に被害状況の調査を終えて車で戻る途中、信号機に衝突した。のちに過労死と認定され、私はそれを記事にした。

 松山市の主婦、青木弥生さん(75)が記事に目を留めた。「故郷のために身を粉にして働く青年が、命を落とすなんて」。青木さんは哀悼の気持ちで、星野さん方に線香を送った。母信子さん(67)は手紙で謝意を伝え、「もう少し、お付き合いさせてほしい」と提案。顔も知らない2人の交流が始まった。

 地震から1年後に私が訪ねた時も、信子さんは悲しみが癒えず、寝込みがちだった。夫の祐治さん(72)とともに06年村に戻り、農業を再開したが、失意の日々から抜け出せずにいた。そんな時に青木さんから、自宅の庭に咲いたという黄色の水仙が届いた。息子の仏壇に供え、お礼に自慢の米を送った。今度は愛媛のミカンが送られてきた。

 青木さんの方は、信子さんから山菜やトマト、ピーマン、米が届くたび、感謝の絵手紙を送った。ウドを味わうと「山古志の春 土の恵みがすばらしい」。米のおいしさに「やっぱり(食卓の)主役はお米です」。

 10年秋、信子さんが松山市の道後温泉を訪れ、初めて対面した。写真で知る恵治さんの面影がある、と青木さんは感じ、ことさらに励まさず、松山の魅力を語った。引きこもりがちな信子さんが旅行に出かけることは、明るさを取り戻すきっかけになるのではないかと考えた。

 1年半後、今度は青木さんが新潟を訪ね、信子さん宅で2晩過ごした。田んぼをホタルが舞う夜、「次は一緒に長岡の花火を見よう」と語り合った。

 被災者を支援し続けることは、たやすくない。だが、青木さんは「特別なことは何もしていない。新潟と愛媛は土地柄が全く違うので、ごくありふれた生活を互いに紹介し合っているようなもの」と気負わない。

 私は今月、信子さん方を訪ねた。「身内にはつらくて言えないことも、青木さんには打ち明けられた。明るい声を聞くだけで気が休まります」。明るい声だった。10年続くさりげない気遣いの積み重ねが、前に踏み出す力を与えているようだ。

 「妻の切なさを知り尽くしている自分には、励ますことなどできなかった。それができるのは、第三者しかいない。命を助けられたようなものだ」と、祐治さんは言う。

 信子さんは、寝室の一隅に青木さんの写真を飾っていた。「ずっと忘れちゃいけない人ですから」