ALSを知ってから、障害を見る自分の感覚が変わってしまった
ALSを知ってから、自分の中で変わってしまった感覚がある。こんなことを書くのは、少し怖い。誰かを傷つけてしまうかもしれないし、自分でも「こんなふうに考えるのはよくない」と思うから。それでも、父がALSになってから、私は時々こんなことを思ってしまう。片腕が使えなくても、もう片方の腕が使えるなら。両腕が使えなくても、足が動くなら。歩けなくても、手が自由に動くなら。「それなら、全然いいじゃん」そんなふうに思ってしまう自分がいる。もちろん、実際に腕や足を失ったり、身体の一部が動かなくなったりすることが「大したことではない」なんて、まったく思っていない。その人にしか分からない苦しさや不便さ、喪失感があることも分かっている。障害に優劣をつけたいわけでもない。それなのに、ALSを知ってしまってから、私の中の「身体が動かなくなること」に対する基準のようなものが、変わってしまった。父にALSの疑いが出た頃。まだ父は歩けていた。自分で食べることもできた。身体を自分で動かすことができていた。それでも当時の私は、怖くて仕方がなかった。腕が少し上がりにくい。それだけでも、これから先に起こるかもしれないことを考えて、ものすごい恐怖と絶望を感じていた。でも今は、あの頃に戻りたいと思う。戻ってほしい。あの状態が、ずっと続いてくれていたらよかったのにと思う。今の私から見れば、「腕が少し上がらないくらい、全然よかった」と思ってしまう。あの頃の私が聞いたら、きっと信じられないと思う。あんなに怖くて、あんなに絶望していた状態なのに。今は、その頃の父に戻ってほしいと願っている。ALSの残酷さのひとつは、「今日が一番いい状態かもしれない」ということなのだと思う。父の場合、進行はゆっくりだった。それでも、止まったわけではなかった。ゆっくりでも、少しずつ。年月をかけて、確実に進行してきた。「これ以上、進まないでほしい」何度そう思っても、ずっと同じ状態でいてくれるわけではない。だから私は、いつの間にか「できなくなったこと」だけではなく、「まだできていること」を見るようになった。ALSは、手足が動かなくなるだけの病気ではない。進行すれば、話すことや飲み込むこと、自分で呼吸することまで難しくなる可能性がある。父は今も、自分の口から食事をとることができている。飲み込むこともできる。呼吸もできている。だからこそ、それがこのままずっと続いてほしいと思う。今ある機能を、これ以上ひとつも失ってほしくない。そんな経験をしてきたからなのかもしれない。身体のどこかに不自由があっても、それ以外の機能が保たれている人を見ると、「そこがずっと残るなら……」「それだけなら、全然いいじゃん」と考えてしまうことがある。そして、そのたびに自己嫌悪になる。その人にはその人にしか分からない苦しさがある。歩けないことも、腕が動かないことも、身体の一部を失うことも、決して「それだけ」で片づけていいことではない。頭では分かっている。誰かの苦しみと父のALSを比べても意味がないことも分かっている。それでも、心が勝手に比較してしまう。ALSを知る前の私だったら、「歩けなくなる」ということだけでも、想像できないほど怖いことだったと思う。でも今は、歩けなくても、手が動くなら。手が動かなくても、自分で呼吸ができるなら。自分の口で食べられるなら。自分の声で話せるなら。そんなふうに、「残っているもの」を見るようになった。父にALSの疑いが出た頃、私はあの状態を絶望だと思っていた。今は、その頃に戻りたい。人間は、そのときには分からないのかもしれない。失って初めて、「あの頃は、まだこんなにたくさんのことができていたんだ」と気づく。今日できていることが、明日もできるとは限らない。だからこそ今は、父が今日できていることが、できるだけ長く続いてほしいと思っている。ALSを知ったことで、私の「身体が動く」ということへの感覚は、確実に変わった。そして時々、そんなふうに変わってしまった自分自身にも戸惑っている。