東京オリンピックまで遂に1年を切りましたね。とにかく日本選手の活躍とオリンピックの成功を期待したいですね!!今回は、ハリーが中学生の頃、打ち込んでいたバレーボールについて、当時の日本男子バレーボール界初の金メダル獲得の期待を一身に受けて、見事にミュンヘン五輪で金メダルを勝ち取った日本男子代表監督である松平康隆監督と当時の選手らの秘話をご紹介しよう!!当時アニメにまでなったミュンヘンへの道も凄い反響を呼びました!!
因みにハリーの好きな選手は、森田選手でした。その他、横田、大古、嶋岡、猫田、南、木村、中村キャプテンなど素晴らしいスタープレーヤーが揃っていたあの当時ハリーもバレーボールに熱く燃えていました。
女子バレーも東洋の魔女から続く栄光の時代でもありました。
やはりスポーツ根性アニメと呼ばれる漫画ブームでもあり、アタックNo.1や巨人の星、あしたのジョー、紅き血のイレブンなど毎日見ていましたね!!
今今日では、常識となったクイック攻撃や1人時間差攻撃など元を辿れば、松平監督無くしてあり得なかったであろう!!新しい技を生み出すまでの過程には常識外の努力なくして生み出せない!!松平監督の編み出したフライングレシーブは、代表選手全員が体得し、又、逆立ちで20m以上歩けなければ代表選手になれない。柔軟性を養うためにバク転やバク宙を長身選手が完璧にこなせるまでにアクロバット体操まで取り入れて猛練習を続けました。
バレーボールに限らず、野球では王選手の一本足打法(フラミング打法)、体操では、月面宙返り(ムーンサルト)、今では常識ではあるけど、日本人が生み出したという点で素晴らしい功績だと思いますね!!
松平は監督就任直後から「どんなバカみたいなことでもいいから考えろ」と新しい攻撃パターンを選手たちに命じた。
木村は19歳でのソ連遠征での屈辱が契機となった。当時、中大のエースで、日本では怖いもの知らずだった。だが、ソ連との初戦で4連続ブロックを食い、その後の試合では起用されなかった。帰国する船で松平は「(世界では)チビだということが、分かっただろう」と話しかけた。木村は「どうしたら、大きな選手を相手にスパイクを決められるか」と、1年かけて完成したのがBクイックだった。それまであったAクイックがセッターからの短いトスをスパイカーが速攻で打ち込むのに対し、Bは長いトスからの速攻。攻撃の幅が大きく広がった。
その後、セッターが前方にトスを上げると見せかけて、後方にAのタイミングでトスを上げるCクイック、時間差攻撃が完成した。
森田が1人時間差を生み出したのは、練習中のミスがきっかけだった。「クイックに入ろうとしたら、時間差のトスが上がり、タイミングが合わなかった。だけど、ボールはまだ宙にあった。ポンと打ったら、ブロックもいなくて決まった」(森田)。これをヒントに、その動きを習得。相手チームは、森田がミスをしたと思ったら、そのあとにスパイクを打ってくるので、ついていけなかった。この後、大古がまさにZのような文字の動きでスパイクを打つ、Z攻撃を編みだし、多彩な攻撃陣がつくり上げられた。
守りでは、フライングレシーブを考案。時速100キロを超えるスパイクに対応するためには、飛びながらボールを空中でカットする必要があった。何度も飛び込んでの練習で、選手たちは顎を切った。当時の体育館は木のくぎが出ているところがあり、そこに顎がぶつかったのだ。医務室で傷を縫って戻ってきても、練習は続けられた。
「惜しいではだめなんだと、何度もやらされた。体罰はなかったけど、松平さんは妥協しなかった。それが世界一を目指すことだと思った」と木村は振り返った。日本協会科学技術研究員だった斎藤勝がトレーナーとなり、特殊な体操や、バック宙やバック転を取り入れた。ボールをロープのついた網に入れ振り回し、その上を選手が飛んでいく練習もあり“松平サーカス”と呼ばれた。「空中の動作や、連続の動きや俊敏性を身に付けられた」と斎藤。