世界文化遺産・富岡製糸場と日本映画「ああ 野麦峠」の接点について | 躍動体験!!アルプス・ハリー

躍動体験!!アルプス・ハリー

趣味のトレランや登山他アウトドアスポーツなどの体験レポートと旅行や歴史、城郭巡りなどについてご紹介します!!

こんにちは アルプス・ハリーです。
イメージ 1
 
今回は、ニュースでも毎日取り上げられている世界文化遺産登録がほぼ確定的となったお隣の群馬県・富岡製糸場についてハリーなりの独断と偏見ではありますが述べてみたいと思います。 と言っても、それを述べるだけの資格もハリーは持ち合わせておりません。悪しからず!! 世界文化遺産に登録されることは、日本にとっても富岡市にとっても本当に素晴らしく光栄な事だと思います。が果たしてそれだけの遺産価値は何処から見出されるのか疑問でした。
 
それは、どうしても製糸工場というイメージからあの名作日本映画「ああ 野麦峠」での過酷な重労働で働かされていた哀れな女工達のシーンが脳裏に焼きついてしまうからです。当時の日本近代化の為の国家プロジェクトであった殖産興業の発展の陰に富国強兵政策の下、過酷な強制労働を余儀なくされた婦女子や貧しい農家の現状と真実を決して忘れてはならないと思います。彼女らの流した血と涙と多大なる努力があってこその今日の日本産業の繁栄がなっているのですから。
 
1.最初にどうして製糸工業が盛んになったのか疑問ですね
・・・・以下富岡製糸場ホームページより 
                  http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html
 
 
イメージ 5

☆ 明治政府は、日本を、当時 近代化 ( きんだいか ) を 推進 ( すいしん ) する世界の 先進諸国 ( せんしんしょこく ) と対等な立場にするため、 富国強兵 ( ふこくきょうへい ) ・ 殖産興業 ( しょくさんこうぎょう ) を 重点施策 ( じゅうてんしさく ) としていました。その中で生糸は主要な輸出品目でした。明治維新 ( めいじいしん ) 後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、 産業 ( さんぎょう ) や科学技術の近代化を進めました。そのための 資金 ( しきん ) を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的だと考えました。そこで政府は生糸の 品質改善 ( ひんしつかいぜん ) ・生産向上と、 技術指導者 ( ぎじゅつしどうしゃ ) を育成するため、 洋式 の 繰糸器械 ( そうしきかい ) を 備 ( そな ) えた 模範工場 ( もはんこうじょう ) をつくることにしたのです。
 
2. どうして、富岡市に工場が建てられたのか?
  1. 富岡付近は 養蚕 ( ようさん ) が盛んで、生糸の 原料 ( げんりょう ) の 繭 ( まゆ ) が 確保 ( かくほ ) できる。
  2. 工場 建設 ( けんせつ ) に必要な広い土地が用意できる。
  3. 製糸 ( せいし ) に必要な水が 既存 ( きぞん ) の用水を使って確保できる。
  4. 燃料 ( ねんりょう ) の石炭が近くの 高崎 ( たかさき ) ・ 吉井 ( よしい ) で 採 ( と ) れる。
  5. 外国人指導 ( がいこくじんしどう ) の工場建設に 地元 ( じもと ) の人たちの 同意 ( どうい ) が 得 ( え ) られた。
以上のような 理由 ( りゆう ) により、富岡が選ばれたそうです。
 
3. 当時、働いていた女工達の待遇や給料は良かったのか?
イメージ 2
 
 
イメージ 3
イメージ 4
※以下はある記事より
 富岡製糸場は1872年に建設されたが、当時の国家予算の約1%をつぎ込み、国運を担った。製糸場で働く若い女性たちのことを女工哀史として語られがちだが、最近の研究では富岡で働く女性は元武家の子女を中心に選ばれた、いわばエリートだったらしい。待遇も、当時の農家の暮らしと比べたら、ずっとよかったという。だから女工時代を懐かしむ声も記録に残されている。ブラック企業ではなかったのだ。
つまり、富岡製糸場の場合は当時の国家威信をかけての大企業であった訳で、映画のような悪待遇でなく、それなりの環境で女性達は働いていたようです。
 
※但し、地域的な面から考察すると、群馬県地方より寒さの厳しい長野・信州地方や富山県・飛騨地方の場合は当てはまらず、当時の信州・諏訪地方に多く点在していたある工場(あくまでも一部の工場)では、同映画に見る現状と変わらない悪辣な労働環境であったことも真実であることを念頭にいれておきたい。別の見方をすれば、これらの労働条件を改善・改正するような国民運動つまり明治から大正期における女性平等主権運動のさきがけとなった事例でもあるとハリーは考えます。
 
4. ああ 野麦峠に見る当時の貧困な農家や時代背景
 
NHKの連続TV小説「おしん」や今放映中の「花子とアン」の明治の貧困農家を描いた背景とその貧しさに負けずたくましく生き抜く女性達の人間愛と相まってこの映画でも女工達の光と影の部分に照点が当てられた人間ドラマですね。
 
※ストーリー
 「ああ野麦峠」は、、昭和43年(1968)朝日新聞社から出された山本茂実のルポルタ-ジュ。製糸工場の女工さんだった明治生まれのお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめた。故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、
       戦後ノンフィクションの名作!
 明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。養蚕が日本を支えていた時代、その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。
 諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。
(以下 ああ野麦峠より抜粋)

      
工場づとめは監獄づとめ
           金のくさりがないばかり


      
籠の鳥より監獄よりも
           製糸づとめはなおつらい



 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。逃げた工女があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、それは文字通りの監獄であった。 「それでも行かずばならない。そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、みんなのあとについていったのでございます」(明治23年生)

 当時、百円といえば大変な大金だった。百円工女になることは彼女たちの誇りだった。だからこそ、無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。しかし、そんな頑張りもつかの間のこと。重労働に疲れ、いつしか体は病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。
 
※詳しくは→女工哀史 ああ 野麦峠より
            http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm