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 いかに権力からお叱りを受けても、やっぱり人のことを悪くいってはいかんなぁー、と反省して加筆修正したバージョン(笑)
 


14人のランナーと6人のサポートにまわった仲間が、壮大なコースと圧倒的な自然を前に、それぞれの個性と練り上げられた登山技術を存分に発揮し、飛騨の山々の稜線を舞台に遊び尽くしました。
 
この時期としては異例の悪天に見舞われましたが、10名が完走。
 
トレイルランと登山の線引きが全く無意味と思えるような、この新しい取り組みは、とてつもない熱を持ったまま、幕を下ろしました。
 
これはレースではありません。むしろレースに偏るトレラン界に弾丸を撃ち込む存在だったと思います。

そしてそれは同時に、参加したメンバー自身へも撃ち込まれたと思います。
 
レギュレーションは皆無。参加費もなし。参加資格は「こいつだったら生き残るだろう。こいつだったら何かあった時に命を懸けてでも助けるだろう。」と思える仲間であること。
 
順位も、スタイルも、リタイヤの言い訳も、人からどう思われるのかも、このHUBの最中は誰も気にしていなかったと思います。みんな全員が無事に下山することだけを必死で願いました。
 
この圧倒的な山の大きさが、人間の奥底から湧き上がる力と団結を復活させてくれました。
 
現代人の我々が、その潜在的な力を思い出すには、これほどの大きな山が必要だったのでしょうか。
 
個人的な感想ですが、それは昭和が戻ってきたような温かい時間でした。そしてこの山域は、世界に誇れる美しい山だということを改めて確信しました。





 このイベントに関わった人にとって、最も美しい瞬間の一つとなったことは間違いありません。


 


また、HUBのありようについて考えていた7月頃、このブログにこう書いていました。


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「タモリは言った。「ジャズをやってる人の中にジャズじゃない人がいる。」と。


 


 クライミング、バックカントリースキー、サーフィン、トレラン、それらはジャズ同様、美しく生きる方法の一つやと思う。


 


 この意味は分かる人には一瞬で分かるはずだし、分からない人には説明しても分からんと思う・・・・・・」


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  HUBには自然となりゆきで、この意味が分かるものだけが集まりました。お誘いのメールを送れば、二つ返事で「参加します!」と即答するものが続出。ルールもない、このイベントに、質問するものすらいませんでした。
 
レギュレーションは何を守るためのものなのか?

参加資格の設定は、参加者自身を守るためのものなのか?

少なくとも、私は何があっても仲間を守る覚悟だけはあったと思います。


そして始まれば皆、各自のキャラクターを活かしたアドリブを連発。飛騨山脈の大きな舞台の中で、小さな小さな存在である我々が力を結集し、「山」と「仲間」ととことんまで深く付き合いました。


 
私は自由さが好きでこのスポーツを始めましたが、トレランの中に自由さでなく、違う部分を求めている人が多いように感じます。




 今のトレイルランニング業界はアウトドアスポーツというより、「人間社会内の順列争い」に利用されている部分が目立ちます。

 人間も動物であり、本能的に順列争いをしてしまうことは、やむを得ないことなのだとは分かっています。

 しかし人間は動物を超越した存在だと信じたい。


 トレッキング、トレラン、ファーストパッキング。そのような呼び方は商業的な分類であって、3000m級のガチの山々を前にすれば、それらはすべて「生き残ることだけがルール」の登山です。

 トレランだけがダメ、短パンを履いているからダメ、装備が少ないからダメ、ということはないのです。

 時に鍛えあげたその身体能力と登山技術は、野生動物を超えることができるはずです。

 そして自分目線の小さな視点で居続ける限り、そのようなちっぽけな分類から自由になることはできません。山はまるで奈良の大仏のように、「ちっさなことは、ほっとったらよろしい」と微笑んでいるに違いないのです。



 登山者も山小屋も環境省すらも、山という大きな視座から見れば害でしかない矛盾の中、私たちにできることは批判に対して反論することではなく、組織を作ったり、組織に対して働きかけたり、既得権を守るために誰かを説得することでもなく、ただ美しい登山をし続けることなのだと、私は考えています。


 


 Ultra Bulletsは、その核心が伝わっていくなら、もう二度と開催されなくてもいいのかもしれないし、それは分からない。


 HUBはもともと、一人でも活動できる強い人間の集まりです。

 でもまた弾丸が必要になったら、集まろう!
 


ではまた次なるミッションで。