フランスのサムライ、アンドレ・カズヌーブを知っていますか?
ブログネタ:行ってみたい国 参加中未だ自分が住んでおります処の日本国ですら殆ど巡っておりませんのに外国に行きたいだの全く恥ずかしきものでございますが人生で一度は行きたい外国これが案外と多い小生にございます。先ずベルギー王国リェージュ。ここは国際寝台車欧州急行列車株式会社(コンパーニュ・アンテルナシオナリィ・デ・ワゴンリ)その創始者であるジョルジュ・ランベール・カシミール・ナゲルマケールスその自宅・・・いや・・・シャトー(城)があったところで彼はここで亡くなっております。東方急行(オリエントエクスプレス)に代表される「本物」の国際列車を作り残した小生が師とする一人にございます。次にネーデルランド王国ドレトレヒトここは日本最初のフリゲート軍艦にして当時は東洋最強の戦闘艦Voor lihter(フォールリヒター・夜明け前の意)こと「開陽」が建造されたヒップス・エン・ゾーネン造船所がございました処にございます。榎本釜次郎武揚や沢太郎左衛門貞説など徳川幕府留学生が設計から竣工まで立会った「幕末武士学者達の夢の結晶」その「夢を築いた地」一度は参りたいものです。それぞれその土地に行くからこそ感じられる空気と言うものがございます。そしてその土地に立った時に初めて「思い出す」自身の「原点」が見えて来る事もございます。夢は民衆の幸を以って公之義を得、それを使命と名付くもの也その特別に上等な夢を味わってもたいものでございまして・・・・さて。東日本大震災が発生した事に起因致します東京電力福島第一原子力発電所の災禍03月31日フランス共和国のニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ大統領が来日これと同じ日に同国の原子力企業「アレヴァ」のアンヌ・ロベルジョン社長が5人の技師と共に来日し福島県浜通の現場に入ったと言う報道がございました。差し詰め日本の危機に立ったジャンヌダルクとでも言うべきものでしょうがその報道を眺めて小生は一人のフランス人を想起しておりました。皆様はアンドレ・カズヌーブ(Andre Cazeneuve)をご存知でしょうか?幕末も幕末慶応三年一月フランス帝国(第二帝政)シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト皇帝(ナポレオン3世)が徳川家に派遣した19名による軍事顧問団の一員として来日した帝室種馬飼育所の馬術師で陸軍での階級は伍長でしたがとある論文には「リュトナン」(ルーテナント=陸軍尉官)とある事で少尉心得同等の階級を貰ってやって来たと小生は推察してございます。この幕末フランス軍事顧問団は軍馬品種改良を目的として26頭のアラブ馬を「持参」しておりましてこの軍馬品種改良の担当官が誰あろうカズヌーブでございます。下総国に相馬小次郎平将門の頃からございました「小金牧」ここをベース(現・千葉県松戸市小金原)として品種改良に取り組もうと画策幕府は26頭と顧問団に教育を受けた牧士を小金牧に新造した厩舎に配置小金佐倉牧奉行・綿貫某にその展開を命じましたしかし来日したその秋には徳川家は大政奉還坂東もにわかに騒がしくなって参ります顧問団長シャルル・シャノワーヌ陸軍参謀大尉副団長ジュール・ブリュネ陸軍砲兵大尉などは大鳥圭介純彰歩兵頭松平太郎源正親歩兵頭などが率いた伝習隊にフランス式の軍事指導を相模国横浜村大田陣屋で行っておりましたが江戸城開場が決定して以降徳川宗家の意向(恭順)に沿わない「抵抗派」が大半以上となり伝習隊も大鳥を始め半数以上が官軍に抵抗する姿勢を見せました慶応四年三月になりましてフランスを含む欧米列強は局外中立を宣言軍事顧問団は帰国する様に指示を受けますその八月十九日夜横浜のイタリア公使館で行われた仮装舞踏会からその仮装のままブリュネ大尉とカズヌーブ伍長が陸軍を脱走松平正親と合流し徳川家海軍副総裁・榎本和泉守に同行を申し出ますその夏アルテュール・フォルタン近衛砲兵軍曹ジャン・マルラン騎兵軍曹フランソワーズ・ブッフィエ騎兵軍曹の3人も徳川家臣団に合流し関東・東北の戦闘に参加し仙台で榎本艦隊に合流します。後に蝦夷・箱館の五稜郭に立ち上げられる北蝦島政府・・・・時に・・・「蝦夷共和国」などと仰る方がおられますがどうもこの北蝦島政府と「奥羽越列藩同盟」がごっちゃになってしまっている方が多い御様子榎本が英仏領事と会談し「認定」させようとした「オーソリティー・デ・ファクト」(事実上の政権)とは「独立した国家」と言うよりもスタイルとしては社会主義の国である中華人民共和国にありました資本主義地域の香港・澳門と同様の「国の中にある高度自治地域行政組織」と翻訳した方がその後の「蝦夷地借用の嘆願」などの政治行為等から推測してしっくりとするのですちなみに「事実上の政権」と「交戦権団体」の根本的な違いは「事実上の政権」に於いては「当該特定の地域に於ける自治に関する独自性むの保障は求める」ものの「交戦権団体」の様に「自分達が居住する国家の体制の変革や干渉されない新たな国家政権を目指す」とは異質であります。一方の「奥羽越」は帝に連なる人物を「地域皇帝」として冠戴する方向性もあり一つ間違えば「独立国」先の「交戦権団体」に近い空気がありますしかし初代ナポレオン・ボナパルトがスペイン(実兄ジョセフが国王ホセ1世)ホランダ(オランダ。実弟ルイが国王ローデウイック1世。その子息がナポレオン3世)イタリア(ボナパルト本人がイタリア王を兼任)など傀儡とも衛星国家とも言える体制を敷いた事に影響を受けたと仮定しますと「東北衛星共和国」を意図した可能性もございます。「事実上の政権」と認知させられてしまいました側の明治元年十一月に榎本と会見した連合王国公使館付書記官・アダムスが後に著した「日本の歴史」で「republic of ezo」としたものですから「蝦夷共和国」と翻訳しそれを倣ったものなのでしょうけれどネーデルランド(オランダ)留学時代ハーグ大学のフレデリック教授から指導された「海事国際法」(海律全書=宮内庁書陵部に現存)などで欧州国際関係法を学んだ榎本和泉守の事でございます当時の日本国は実はそんな「Authorities De Facto=事実上の政権」であります後世に「藩」と呼称されたが三百もの「高度自治地域政権」の集合体です実は英国もそんな「王国」の連合体ですから英国人のアダムスが言う「republic」は日本語の「藩」この言葉の些細な差異は榎本を大変喜ばせたそうで英仏二国からAuthorities De Factoを認知させた(実は現場の人間達が榎本や北蝦島政府の紳士的態度に、友好的姿勢を持ち本国指示を無視したとも。)この事が後々に新政府と諸外国の外交に於いてちょいと面白い結果を呼ぶ事になります。さて。カズヌーブ達5人の「騎士道のサムライ」達これに後日5人のフランス海軍や民間人が加わり「箱館のフランス人」は10人となりますが明治二年に始まりました官軍総攻撃で現場指揮参謀として道南を転戦致しますカズヌーブは松前戦で負傷致しまして五月一日榎本の懇願により5人のフランス軍事顧問団は解任されフランス海軍の軍艦コエトロンで箱館から脱出し横浜に戻ります但し当時のフランス公使・ウートレーが陸軍辞職を逃亡とみなしブリュネ達士官は軍裁判の為に本国へ送還カズヌーブ達は南仏印サイゴンへ追放してしまうのです。五月十七日に北蝦島政府は新政府に降伏戊辰戦争は終結しますしかしカズヌーブは日本に戻ります明治六年四月に陸軍省が中尉待遇で雇用しアラブ馬26頭中9頭をもって福島県標葉郡権現堂村(諸説ありますが、何れも現在の双葉郡浪江町)で馬種改良と飼育指導の教師として赴いた明治06年11月21日12時20分死亡しましたちなみに榎本や内藤隼人(土方歳三源義豊)たちと共に戦った北蝦島政府フランス人士官5人のその後ですが大変に興味深いものがございます。アルテュール・フォルタン近衛砲兵軍曹明治三年に再来日し兵部省兵学寮(後の陸軍士官学校)に教官として雇用され、後年にフランスに帰国ジャン・マルラン騎兵軍曹明治三年にフォルタン達と共に兵部省兵学寮教官、明治五年大阪で死亡し神戸に埋葬フランソワーズ・ブッフィエ騎兵軍曹明治三年にフォルタン達と共に兵部省兵学寮→陸軍兵学校教官。日本人女性と結婚し二人の男子を得たが明治14年に東京で死亡し横浜に埋葬また軍事顧問団として来日したアルベール・シャルル・デュ・ブスケ陸軍歩兵中尉はそのまま公使館に通訳として留まりまして後年領事を経て政府左院に外交・法制の顧問として雇用されまして日本人女性と結婚し6子をもうけて帰化致しました明治15年06月18日に東京で死亡しまして青山霊園に「治部輔」の墓標で葬られております問題は・・・・・・・・・・・・・・・顧問団長のシャノワーヌ大尉とブリュネ大尉ブリュネ大尉がフランスに到着したとほぼ同時期の1870年07月19日・・・フランス・プロシア戦争が勃発致しましてブリュネ大尉も陸軍大尉として復帰09月02日フランス・アルデンヌ県スダン郊外で皇帝陣頭指揮による「セダン会戦」に於いてモルトケ中将率いるプロシア(ドイツ)第三軍が包囲皇帝ナポレオン3世などと共に捕虜となりますが生還致します明治31(1898)年に第三共和制のフランス戦争大臣にシャルル・シャノワーヌ陸軍大将が就任陸軍参謀総長にはジュール・ブリュネ陸軍少将・・・はい。ブリュネさんは陸軍少将・参謀総長に登りつめておられまして明治27年の日清戦争に際しては日本軍上陸支援に功績があったとして勲章を明治政府がシャノワーヌと共に叙勲しておりますがこの時の閣僚に榎本武揚の名が見えていたり致します138年前磐城国の海岸に近い野に馬と共に夢を抱えて立ったカズヌーブそれは今日原発事故で災禍に見舞われている浪江町そのものですそして138年後やはり5人の騎士道のサムライ達は放射能と言う見えない敵との戦いの為再び助っ人としてやって参りました明治維新後に今日の形態として開催されるようになりました相馬野馬追その流される歌は「相馬流れ山」下総国流山にルーツがあったとされる「戦国大名相馬氏」その母地を慕って流されるのだとかカズヌーブと共に戦った内藤隼人こと土方歳三源義豊は流山・長岡屋ほ本陣として進駐している最中に官軍と遭遇致しまして大久保大和守剛(近藤勇藤原昌宜)と永遠の別離を迎えたのですが勇壮で全国的敵にも有名な野馬追もその存続危機に置かれておりますこの馬たちを遺したいそのカズヌーブの思いが5人の騎士をフランスから呼んだのではないかと小生勝手に感慨している次第にございます。