卒業したいこと、もの ブログネタ:卒業したいこと、もの 参加中

早いものでと言う言葉が交錯する
いや全く早くなどない
長い長い十年以上の実感が残る二年

あの日
部屋の中を機械や本や書類が飛び舞う中
ここぞ臨終を一瞬だが覚悟した
長い長い動揺は
それこそ三分どころでは無かった

同じ街の中で倒壊した家もある
道も波を打ったままで止まり
金曜日の薄曇りの中
暖かい陽だまりは
ガラスの割れる音
人の叫ぶ声
緊急車両のサイレン
防災無線の警報
そんな喧騒が非常を知らしめていた

瓦が落ちて砕けたのを横目に
崩れた本棚の本の海を
それこそ這い出て
駅前に遅い昼飯を買いに出たのは
一時間もした頃だ

幾度も余震が強く襲い
部屋の中だけで震災の様相だった
それでもようやく外に出た時
目の前の流鉄の踏切が鳴り出して
その日から運転を始めた新しい電車が
御披露目の看板を付けたまま
ゆっくりと通り過ぎて行った

それが世間では
実は大きな異変になっていないのでは無いか
と言う錯覚を導き出した

しかし
天井の石膏板が崩れて落ちた駅の改札
窓や壁に亀裂のある建物もあった
そんな中
製剤薬局の待合室にある液晶モニターが外から見れて
それまで見た事も無い光景が網膜に入った

立ち止まった

津波とはこんな事になるものなのだ

第一撃の動揺で
部屋のテレビは床に落ち
コンセントが外れて
一切の情報から隔絶されていたので
それは驚愕としか形容の出来ない
心持ちであった

部屋の片付けを風邪気味のしんどい身体で始め
テレビが使える様になった頃
今度は原発の異常だ

私の住む千葉県内陸では
津波の被害は無かったが
その後の原発災禍は
放射性物質を降り注いで問題となった

地震は世界最大級の破壊力を持って
日本海溝に蓄積されたストレスを放出した
そのエネルギーが巨大津波を引き起こし
地震と津波と火災
そして原発の破壊は
東北太平洋岸を
日本の心の故郷から
悲しみの土地へと一瞬で変貌させた

千住に近い場所で育った私は
常磐線の荒川鉄橋を行き交う列車を眺めるのが好きだった
その中で異彩を放っていたのが
昼間であるのに堂々と走る
上野から青森を結ぶ特急「みちのく」だった

昭和47年3月に特急に昇格した「みちのく」は
昭和57年11月14日
東北新幹線暫定開業による東日本エリアの列車構成大改正で
廃止されたのだが
その十年間
上野発時刻は14時48分だった

記録によると
14時46分に発生したマグニチュード9の動揺が
東京で感じられたのが14時48分

「みちのく」は
寝台座席両用の電車による運用で
肌色に赤帯を巻いた特急電車が行き交う中
白に青の新幹線カラーの列車は
とにかく子供心にも眼を引く存在だった

それを眺めに上野駅に通い出して
まさか十六になった日には
その上野駅に勤めるとは
思いも寄らなかった

その「みちのく」発車時刻14時48分は
私にとって一日の基準時刻になった
11月14日
最後の「みちのく」を
上野駅地平第三ホーム事務室の放送台で見送って
寂しさと辛さとが交錯して
十八の私はただ号泣した

その直後に仲間うちから
その頃夢として語り合っていた
日本最大最速の蒸気機関車C623機復活に
接続させる夢の連絡列車として
「みちのく」のイベント運行
と言う話題が出た

それがその四年後には北海道函館本線に専用臨時列車となり
更にその二年後には小樽駅でC623機の牽引する列車の
警戒として立つなど
思いも寄らなかった

上野から新幹線と言う名の軌間拡張で
在来線列車の直通が廃止となる奥羽本線山形~福島間を
レトロ客車で乗り入れる企画が持ち上がった時
私は迷わず常磐線を経由するものにした

五月末の磐城は
晴れて朝の海が輝いていた
空が黒から群青
そして赤味を次第に増して
やがて海から昇った朝日が茶色の客車を照らす
まさに
美しいものだった

その常磐線も
途切れたままだ

聖哲曰く
冬は必ず春となる
厳冬を耐えて耐えて
その先にこそ
心の春はあるのだと

釈尊は言い残した
毎自作是念
以何令衆生
得入無上道
速成就仏身

私はいつも念じている
どうしたら人々が速やかに幸福になるのかと


震災の復興
そんな処では無い
復旧すら終わっていない

私達も関わった日本最大最速の蒸気機関車C62形式は
東北地方では
東北線では白河まで
常磐線は上野から岩沼を経て仙台まで
その区間で無ければ運転出来なかった
つまり
常磐線は
北東北と北海道へ向かう
メインルートだったからに他ならない

一時的にバスで結ぶと言う代行輸送も拡がっている
しかしそれは復旧となど言わないし言えない

そんな代行すら出来ない常磐線と
あの太平洋が美しく輝いていた浜通
その常磐線に
その昔
上野から青森そして三陸へ直通していた「みちのく」
例え一回限りのイベント運転としても
その復元こそ復旧の完了と私は固く信じる

放射性物質が恐ろしい
それは私も同じだが
その無知からただいたずらに騒ぎ怯える
その心が何より恐ろしい
そして無意識に
人々を差別して
溜飲を下げる本性が人間には等しくある
その精神こそ恐ろしい

震災の恐怖や実影響は
東北のみならず
関東や北海道でも大きく存在した
三陸や浜通に比較すれば些細である
その為にか殆ど報道もされない

無論
三陸や浜通に比較すれば
被害などと言えないほどのものだろう
そしてあの巨大な災禍を
そのまま受けた土地と人々に対する遠慮もある


大切な生命を失った悲しみは
他と比較など出来無い
頑張ろう
悲しみを乗り越えて
などと言われて
その心の空虚と痛みが治癒など出来る筈も無い

私は現地に片付けの手伝いになど行かなかった
震災復興支援の企画なども
まともに構築もしなかった

その衝撃の記憶が記録として意図的に薄れさせようとした時こそ
「みちのく復活」
を口にしようと決意していた

しかし人間とは勝手なもので
日々忙殺の中で自身も忘れて掛けていた

師匠がそんな時
「みちのく」
と私の背を叩いた

私の愛するみちのくの地に
本当の笑顔が戻る事は困難だろう
しかし
この小さい非力な凡夫に出来る事などわずかだ
だから覚悟しないと動き出す事も立ち上がる事も出来ない

その深意は
ただただ
冬は必ず春と成る
と繰り返し言い続ける事くらいしか無い

その悲しみの記憶が
決意の原点となるように
その恐怖の体験が
万年の教訓となるように

失われた生命を
宿命だったと言うのは簡単だ
だが卑怯だ
その生命が生み出した夢や元気や優しさまで
忘れて生きろなどと
その恐怖も悲しみも知らぬ者だからこそ口に出来る事だ
恐怖から逃げ回る人生は
敗北でしか無い
その場
その地に踏み止まり
次の時間を如何に創り出すのか
その覚悟の上に決意する人々こそ
応援をしたい存在だ

そのためにも
私自身がそろそろ傍観者を卒業しなければならないのかも知れない

そんな地に生きる人が
凛然と咲き輝く「みちのく」が
小さいが確実に芽を出している
それは自然な事などでは無い
恐怖や悲しみを受け止めて覚悟して決意したればこそ
湧き出た結果なのだ

頑張るの先に立ち上がろう
爛漫と咲いて舞おう
それが弔いであり
無数の笑顔や優しさへの
報恩感謝なのだから

みちのくの冬よ必ず春となれ 過ぎし優しさ留むるためにも

法悟末弟 義将 謹言