ブログネタ:新しい情報、どこから仕入れてる? 参加中墓マイラーなどと言う無粋無礼不敬な趣味は自慢にもならぬ
ちょっと前まで
小生も妄想で歴史を語る傾向がございました
今にして思えば汗顔の極みでございますが
「情報」は新鮮であるより「正確」である事が肝心で
これは
危機管理の作法に於ける基本中の基本であります
大抵
小生が要求する情報は
大衆週刊誌や新聞の紙面を飾る内容では無く
極めて専門的で
極めて機密性の高いものばかりであります
鉄道やら交通と申します仕組が
直接的に経済や政治につながりますもので
こればかりは仕方もございません
それで・・・
小生が情報を獲得する部分は
信頼出来る知人による情報
がかなり大きく重くなります
困りますのは
その情報伝達に
時折介在致します「マニア」です
言わば
「自身の政治的・経済的影響の微少若しくは皆無」
な趣味の世界としてその情報を捉える方と
直接それが仕事や立場に関わる方では
同じ情報に接しても
他へ流す際には違った傾向となる場合がございます
なので小生がそれら情報を仕入れる際には
多角度からの流入
や
その方面に明るい者
の
意見
も大切としております
情報は「確度」が重要でありますので
特に心躍る情報ほど
慎重にしてしまいます
なのに・・・
歴史に関してはとても好い加減でありまして
大山・あさくら両先生をはじめとして
本気の歴史家の皆様と接しているうちに
自身の視野の狭さと
情報「確度」確認を怠った姿勢を反省したものであります
裏付けのなかなか見つかり難い情報・・・
これは鉄道車両の動向や
交通に関わる法制変化の予知
事故や事件に対する防衛
なども含むものと相成りますが
実は埋もれた歴史も掘り返せば裏付けに辿り着ける事もあるものなのだそうです
で
「マニア」を経由した情報の危険度は
その情報が持つ「影響」を考慮しないことにあります
さて
弊特定非営利活動法人交通文化連盟には
交通分野を所管する文化局
協働事業を所管する業務局
そして
社会文化分野を所管する社会局
の三「現業」がございまして
この社会局が抱える主幹事業が
観光創造事業群史跡運営事業・・・
北総新選組(鉄道輸送警備隊第三業務隊)が行うところの
流山新選組本陣跡(近藤勇陣屋跡)運営であります
全国新選組サミット
に一応加盟するこの活動は
平成十六年からまぁ続けてしまっておりますが
何せ「新選組」の歴史に直接関与する史跡なもので
新選組のファンの方も
全体の三割半程度は
お出でになられます
そこで時折出る話題として
「何とか忌」
各自妄想や空想
或いは小説・漫画・ドラマ・映画・ゲーム等の創作物に登場するキャストとしての
個人に対する「萌え」は
これは
「極めて個人の信仰・思想の自由」
でありますから
とやかく
言うものでもございません
しかし
慶応四年四月二~三日に
この
千葉県流山市
にございます
住宅街の路地を
新選組局長だった近藤昌宜改め大久保大和守剛
新選組副長だった土方義豊改め内藤隼人
が
ここを歩いていたのは
ほぼ事実であります
つまり
それら「キャラクター」のモデルとなった人物は
確実に生きて呼吸していたのです
その故人を偲び
法事を・・・・
となると
多少の疑問がございます
例えば
新選組友の会様が
「何とか忌」
を催行しておられます
これは一つに
その組織の親睦・交流の機会として
その実在した人物に対する敬意と
回向の思いで企画するもの・・・
なのだそうです
墓参はその延長上のある・・・・
しかし
この企画に不特定多数の一般市民を参加させるについては
「友の会」
の親睦と言う側面が薄れる事にならないものでしょうか?
ここから不確度な情報ですが
一部の企画に付いては
「墓参も会費を取って・・・」
それが墓碑の維持管理に多少使われるとして
故人の人生に於ける「観光素材化」
これは
多少なりとも
多くで見掛けるものですが
それが
「何とか忌」参加が墓参条件
となれば
あまりに直接的過ぎる「観光化」なのでは無いでしょうか・・・
それは歴史ある組織の
歴史ある企画ですから
多面的にお考えもあるかと存知ますが・・・
そもそも
墓参は
その家族子孫が故人の存在を確認すべく行うもので
極めて「身内」の行事であります
小生個人の偏屈にして排他な考慮では
「墓参」
と
「回向」
は
全く異なるものであると法華経より解釈しております
先ず仏法の中の法華経(日蓮仏法)によりますと
「意識」と「生命」は個別に存在する
と言う考えでして
目には見えないけれども存在する「空」で
これとは別に目に見える肉体の「色」
それらが一体化して「人」
若しくは「生物」となっているものであり
「諸行無常」
変化の無いものなど無い
としている仏教の基本は
この
「意識」と「色」
の部分を指すもので
現実として肉体や思考・感情の様に変化するものの
その根底には
「生命」
と言う普遍の存在がある
のだそうです
「生きておわしき時は生の仏 今は死の仏 生死ともに仏なり」
※(上野殿後家尼御返事/文永二年七月十一日著作)
「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば 死人の身は人身 心は法身
生身得忍(しょうじんとくにん)といへる法門是なり」
※(木絵二像開眼の事/文永九年著作)
とございまして
この日蓮仏法の基礎が
「心=仏=生命」
であると見ますと
どうも「生死」は
「意識」や「肉体」有無による区分で
その個々の「生命」(心)は
そんなそんな消去分解なんてことは無いそうであります
小生は自身先祖や父親
お世話になった先輩や流山の街で出会った「オヤジ・オフクロ」達
その回向を欠かせません
なので勤行に際して回向の時間のま長いこと長いこと・・・
この回向
つまり「肉体や意識」が消えても残る「その故人の生命」に対して
全く別の地で
全く別の生命として実在している
いやいや
未だ肉体など「色」を得ていないにせよ
現状での安全や智徳の増加など
「安穏」
を祈念すること
それを「回向」或は供養と申しております
どんな状態で
どんな所に転生しているか
と言う「外視的現実」より
如何に安心して
如何に快適であるか
と言う「対環境事実」が
この「回向」と言う作業にはどうも肝心な様子であります
「毎自作是念。以何令衆生。得入無上道。速成就仏身。」
※(鳩摩羅什翻訳/妙法蓮華経如来寿量品第十六末文)
「毎(つね)に自(みずか)ら是(こ)の念を作(な)す、何を以(も)ってか衆生(しゅじょう)をして無上道に入り、速(すみ)やかに仏身を成就することを得(え)せしめん」
※(通解)
仏法の根幹が
「ど~したらアンタが幸福になれるんかネェ」
としたこの部分にこそあるのだそうですから
それは全ての「生命」
そして全ての「生命として存在した生命」
を対象としたものであると解釈したものであります
つまり
墓参も大切ではありますが
肝心は
その「現実に存在した故人」に対する
敬意や供養は
それを念ずる個人に於ける「一念」こそ重要で
そこに立地・環境・容姿
もっと言えば
個々が信仰する宗教や思想信条は無関係なのです
ただ
墓参に出掛けて
合掌もせずに・・・
単なる物見遊山なら
これは全く無粋無礼不敬
加えて
そんな場に出掛けて
その子孫に会った
とか
有名な先生に会った
とか
そんな自慢の種を仕入れに「観光」にお出掛けなら
そりゃ御供養の精神などではありませんね
「墓マイラー」
などと言う趣味があるそうでして
確かに
墓碑には
貴重にして重要な
その故人の情報が明記されている場合もございます
歴史家のあさくら先生が
その墓碑から
不明確でした流山新選組本陣跡(近藤勇陣屋跡)と言われていた
「長岡屋」に関する情報を
確認されたことを
御本人から伺ったことがございます
それら
一見すれば
いや
多くの凡人が看過する情報を
発掘し
未確定を確定し
埋もれた故人の名誉を明確化する
これは大変労苦の多い
しかし
貴重にして重要な文化事業であります
そんな事業の一環であるなら
そこまで至らなくても
その故人の呼吸や影を求めて探して
その途上の墓参なら
価値も意義もありましょう
しかし
単に
有名人の墓を訪ねることが
まるで毎年夏に
何処かの鉄道会社が旅客需要喚起の一環として行っている
ポ○モンスタンプラリー
と同じ
いや
「観光要素」
として来訪を期待されている場所でもなく
時として
その御子孫や社寺の関係者から
歓迎されていないものであるならば
それ以下
でありましょう
どんな趣味をお持ちになるのも勝手ではございますが
良い趣味とは
決して思えませんし
道義上
仏法教義上
から類推しても
許容されるものではございません
まぁ
そんな趣味なら辞めた方が宜しい
ちなみに
小生も
その新選組をネタとして
流山新選組本陣跡(近藤勇陣屋跡)を運営する
組織の
しかもその北総新選組の監理幕僚でありますもので
近藤・土方両氏の
回向もしております
しかし
その方々より
その形見として多数の着物を頂いた
流山新選組本陣跡(現・株式会社秋元)御当主御母堂様や
自転車を幾つも賜り
何かと御配慮を頂いて
たくさん美味しいものを頂いた富塚さんや
貴重な古話や着物や御馳走を頂いた対面の御婆さん
あの地でふれあい
あの地で我々を支え護って頂いた皆様への
報恩感謝の回向は
欠かすことなど出来ません
流山市にしろ千葉県にしろ
助成も援助もなく
どうして続けられたのか
一つには特定非営利活動法人交通文化連盟としての事業方針の明確
しかし文底は
それらの人々への報恩感謝があるからに他なりません
なので
「ボランティアさせて頂いている」
と言う言動の者は評価しますが
「ボランティアしてやっている」
と言う言動の馬鹿は
とっととクビにするのが
小生の仕事です
この
報恩感謝
こそ
仏法肝心の心持ちである
と言うことも
書き添えておきましょう。