ブログネタ:中国の列車事故、日本は何らかの助けをすべき? 参加中 多くの日本人が忘れている事の一つが弾丸列車と呼ばれた「新幹線計画」である。
この計画は日中戦争が勃発し、対朝鮮・大陸への物流増加に伴い、新しい幹線鉄道を設置すると言うもので、昭和17年鉄道省に於いて「新幹線計画」としてスタートしたものである。
その基礎設計は軌間1435ミリ・目標最高速度時速200キロとし、東京~下関間で用地の取得とトンネル(新丹那等)工事が着手されていた。
この頃、関門トンネルが開業し九州と本州が一つのレールで直結された事で、将来的には長崎への延伸や対馬を経て朝鮮半島まで海底トンネルで抜けると言った壮大な、そして技術的裏付けの殆ど無い夢も、当然の構想の如く世に出たものだった。
静岡県函南町に新幹線と言う地名がある。
これは戦時中に設置されたものだが、この新幹線新丹那トンネル工事の基地が設けられた事でその地名となったものである。
結局、この戦前の新幹線は戦局悪化に伴い、鉄道省の業務を継承した運輸逓信省(昭和18年11月01日~昭和20年07月23日)はこの計画を中止したが、その期間に後の東海道新幹線計画に必要な基礎的研究や一部だが土地確保があったればこそ、着手からわずか五年で最高時速210キロの高速鉄道が実現したものである。
この戦前の新幹線は、今日のものと異なり、対大陸方面への貨客高速輸送が目的だった事から電気機関車・蒸気機関車の設計や、客車・貨車の構想取りまとめまでは完了していた。
我が国鉄道が企画されたのは幕末以前で、徳川家老中・小笠原壱岐守長行(唐津藩6万石藩主)が米国公使館書記だった外国人に江戸~横浜村間鉄道敷設免許を与えたのが記録として残っている。
発足当時の新政府にとって、これは大きな問題となり、戊辰戦争が箱館で終結して一年と経たない明治3年には早々と鉄道建設が廟議決定された。
先に免許を取得した米国人は猛然と抗議したが、是には莫大な慰謝料を手当てし、また官費建設の建前とは別に今日の公共事業民間資本活用策に近似の方法を以て一部だが用地の海中埋立造成と建設を実現した。(横浜・高島町一帯。)
また、明治維新の混乱期だったからこそ、地価の高い都市部に於いて点在した旧徳川方大名家の大規模な屋敷跡地が転用出来た事実もある。
新橋、後に汐留駅となる場所は脇坂淡路守(竜野藩5万石藩主)、松平こと伊達陸奥守(仙台藩67万石)、松平肥後守(会津こと若松藩23万石)の屋敷が南北に連なるエリアで、脇坂家は別として仙台・会津若松となれば官軍から見て「敵」だった大藩の屋敷であった。
また品川駅は有馬中務太輔(久留米藩21万石)、島津修理太夫(鹿児島藩77万石)の屋敷跡である。
この新橋~品川間などは海中に築堤したが、これは官軍主力藩の屋敷を避けたものとの説明を見る事があるが、むしろこの地帯に多く存在していた寺領を避けた、とする方が実測図などから見て合理的である。
他方、英国から技師と共に調達した鉄道資材は、英国鉄道人の常識からすれば極めて簡易で軽便な軌間の狭いローカル或は産業鉄道用資材で、一説にはニュージーランド用資材の転用とも言われている。
確かに、内戦終結から一年と経たない東洋の小国が試験的に鉄道を設けたものと見られて仕方も無いが、この1067ミリ狭軌鉄道がその後日本の鉄道標準となり、輸送力や速度に於いて欧米列強と比較して対抗の出来ない宿業となった。
その後、日本の鉄道史はこの狭軌鉄道の宿業に対する抵抗の歴史を重ねてきた。
更に、その明治初年で英国人はおろか、当の新政府幹部ですら想像も出来なかったであろう、半世紀と経たない時間で客貨双方の輸送需要が世界トップレベルにまで急増する事態に直面し、連結器の一斉交換や空気直通制動装置の標準化など、既にその需要は標準軌間1435ミリ妥当とする水準に達したのだが、狭い土地・起伏の激しい国土形状・国家財政の小規模などの要因がそれを許さなかったのである。
この一種コンプレックスが戦前の全区間標準軌間による高速鉄道、やがてプレストレストコンクリート・車内信号・自動列車停止装置などの列車保安システム・シリコン整流器による交流電化・航空機技術の発展である軽量電車の実現などを加味して東海道新幹線は実現するに至るのである。
明治5年の鉄道本格開業から半世紀で、日本の鉄道技術は複数外国から移転した技術を消化し、日本に適合させて更に改良を重ねて独自の「技術風土・技術文化」を構築したのである。
この外国技術の移転と、その消化による独自適合の技術風土・技術文化の確立は、同時に安全輸送確保に不可欠な要素であり、突然に新幹線0系が登場したものでは無い。
品川を汽笛一声して初列車(本格開業前)が、炭水車付蒸気機関車に牽引されて明治4年に発車して以来、醸成されて来たものである。
余談だが、鉄道博物館に展示されている1号機関車(バルカンファンドリー社製614号/国鉄150形/元島原鉄道1号機)が最初の列車を牽引したものでは無い。
このタンク機関車は建設資材輸送の為にいち早く日本に輸入されたもので、本格開業後には入換や短編成の小運転になどに使われ、関西地区での鉄道建設が始まると同時に神戸に運ばれている。
一方の中華人民共和国、中国大陸での鉄道は1876(明治9)年、清王朝の頃に英国によって上海に14.5キロの簡易鉄道が建設された事が始まりだが、これは数年で撤去されている。
公式なものとしては1881(明治14)年に産業用として敷設された馬力(実際には騾馬)のもので、蒸気機関車は翌年に使用開始されている。
実は日本でも慶応2(1866)年に蝦夷地で炭鉱が稼動開始し、米国人が設計して着工した石炭輸送用の材木をレールとした牛・馬力の簡易軌道があり、明治2年には使用を開始している。(軌間1050ミリ/2.8キロ/北海道後志国泊村・茅沼炭鉱鉄道。明治14年に鉄軌道化して軌間762ミリに変更の後、昭和2年に蒸気機関車導入。昭和37年11月12日廃止。)
日清戦争以降、中国に進出した列強国が鉄道を敷設し、太平洋戦争終結までは東北部や北京など華北方面は日本が占領した状態となり、皮肉にもこのエリアでは早くに車両・施設などの規格統一が成立している。
中華人民共和国成立以降、国内の鉄道は原則的に国鉄(政府鉄道部)が管轄するものとなったが、米英仏蘭日と複数国が各々の規格で乱設し、輸入した車両の整斉には多くの時間を要する事になる。
また同時に共和国成立時には電化路線は皆無で、近年まで幹線で蒸気機関車が現用されていた技術風土で、電気鉄道の技術は輸入に頼らなければ成らなかったのである。
中華人民共和国は共産主義国家ではあるが、ソビエト連邦とは全く異質な展開を辿って来た。
それは鉄道技術に於いても同様である。
1993(平成05)年頃から中国国鉄では主要幹線の電化高速化を打ち出し、自国開発の高速列車も登場させたが相次ぐ故障などで輸入に方針を転換、そこで仏(アルストム社)・日(川崎重工業)・独(ジーメンス社)・カナダ(ボンバルディア社)と技術供与による合弁として車両などの製作に着手した。
また軌道・信号・電気などについても海外技術の移転を画策し2007(平成19)年には最高時速250キロによる専用鉄道を経由した列車も登場した。
更に中国政府は移転した技術を改良し、「これは我が国独自の技術である」と宣言し、その特許を諸外国に申請した矢先に温州での高速列車追突事故が発生したものである。
中国が性急とも思える程に高速鉄道建設を急いだのは、国際経済との連携が経済発展を実現しているにも関わらず、その国際経済の停滞下降を無視して独自に経済発展を「政治的」に上昇させようとした、と私は考えている。
しかし、十億超の国民を抱え、過去に幾度も内戦の如き悲劇を重ねた国土を考えると、それは暴政と簡単に言えない。
確かに技術を提供した側の国に住み、その技術を開発した基盤たる日本国有鉄道で禄を食んだ者として個人的にはこの一連の中国政府による技術独自開発の宣言と特許申請は義に反する行為と批判もしたくなる。
言い換えれば、百五十余年の蓄積した技術をわずかな資金で買って、今度はそれをオレのものと言ったに等しいのである。
しかし冷静に見ると、そこに見えて来るのは諸外国の技術を導入した段階でしか無く、未だ中国の国土に適合しその技術風土・技術文化、何よりも個体としての人間に対する文化が明確化されていない中国の政治的特性が、何処かで安全輸送は鉄道の根幹である、と言う日本では至極当然常識以前な原則が通用していない現実を、その後の鉄道部や政府の対応から感じてしまうのである。
だからとて、その部分だけを取り出して中国人は安全意識が低い、などと罵倒も出来ない。
そんな鉄道安全技術では世界最高レベルである日本でも、運転士の心理的抑圧が原因の一つであるとされた107名の犠牲を出した福知山線事故(平成17年04月25日)や、死亡事故に至らぬものの富良野駅衝突事故、最近も高速で走る特急の脱線火災事故があったばかりである。
どんなに多重に安全・防護の仕組を重ねて置いても、人間と言う不完全にして感情で行動が左右される生物がそれを制御し運転する限りに於いて事故は避けられない。
だからこそ、事故を未然に防ぐためには技術と共に、その安全や職務遂行に対する精神力が必要なのであり、また事故が起こった場合に於いて、とにかくも犠牲者を出さない仕組が不可欠なのである。
分割民営化から四半世紀に近くなり、経済停滞や産業構造の変革から鉄道を取り巻く環境は危険な状態として変化している。
温州事故は技術の醸成の完了していない、未成熟な技術によって引き起こされた人災だったと仮に断定して、それは中国の報道記事として私は読めない。
まして日本が今次事故で救援や支援などをしたとしても、それは国民に潜在的ながら確実に存在する共生意識「和を以て尊きと為し」の精神を彼等に説くぐらいのものである。
何かを以て教えを請うとすれば、教わる側に謙虚と師弟の礼節は不可欠である。
それが見えない者に何事か言ったとしても、それは嫌味程度にしか聞こえないだろう。
中国高速鉄道と共に、かの大地、かの国の醸成はかの民衆が季節が移るが如く自然に感じて、自然に味わい、自然に行動し、自然に変革せしむるものであり、他国がどうのと言うも、その独特の風土文化が個々にあって、技術も産業も人間も同様であるとの認識を持つべきである。
但し、その季節の変わり目には嵐も雷もあろう事は自然の道理である。
国は違えども、鉄道の安全輸送を使命とした組織に在籍するものとして、今次事故の犠牲者に深く哀悼の意を表すと共に、かの鉄道や庶民が苦渋や後悔の歴史を刻む事が無い事を深く祈願するものである。
特定非営利活動法人交通文化連盟理事長
この計画は日中戦争が勃発し、対朝鮮・大陸への物流増加に伴い、新しい幹線鉄道を設置すると言うもので、昭和17年鉄道省に於いて「新幹線計画」としてスタートしたものである。
その基礎設計は軌間1435ミリ・目標最高速度時速200キロとし、東京~下関間で用地の取得とトンネル(新丹那等)工事が着手されていた。
この頃、関門トンネルが開業し九州と本州が一つのレールで直結された事で、将来的には長崎への延伸や対馬を経て朝鮮半島まで海底トンネルで抜けると言った壮大な、そして技術的裏付けの殆ど無い夢も、当然の構想の如く世に出たものだった。
静岡県函南町に新幹線と言う地名がある。
これは戦時中に設置されたものだが、この新幹線新丹那トンネル工事の基地が設けられた事でその地名となったものである。
結局、この戦前の新幹線は戦局悪化に伴い、鉄道省の業務を継承した運輸逓信省(昭和18年11月01日~昭和20年07月23日)はこの計画を中止したが、その期間に後の東海道新幹線計画に必要な基礎的研究や一部だが土地確保があったればこそ、着手からわずか五年で最高時速210キロの高速鉄道が実現したものである。
この戦前の新幹線は、今日のものと異なり、対大陸方面への貨客高速輸送が目的だった事から電気機関車・蒸気機関車の設計や、客車・貨車の構想取りまとめまでは完了していた。
我が国鉄道が企画されたのは幕末以前で、徳川家老中・小笠原壱岐守長行(唐津藩6万石藩主)が米国公使館書記だった外国人に江戸~横浜村間鉄道敷設免許を与えたのが記録として残っている。
発足当時の新政府にとって、これは大きな問題となり、戊辰戦争が箱館で終結して一年と経たない明治3年には早々と鉄道建設が廟議決定された。
先に免許を取得した米国人は猛然と抗議したが、是には莫大な慰謝料を手当てし、また官費建設の建前とは別に今日の公共事業民間資本活用策に近似の方法を以て一部だが用地の海中埋立造成と建設を実現した。(横浜・高島町一帯。)
また、明治維新の混乱期だったからこそ、地価の高い都市部に於いて点在した旧徳川方大名家の大規模な屋敷跡地が転用出来た事実もある。
新橋、後に汐留駅となる場所は脇坂淡路守(竜野藩5万石藩主)、松平こと伊達陸奥守(仙台藩67万石)、松平肥後守(会津こと若松藩23万石)の屋敷が南北に連なるエリアで、脇坂家は別として仙台・会津若松となれば官軍から見て「敵」だった大藩の屋敷であった。
また品川駅は有馬中務太輔(久留米藩21万石)、島津修理太夫(鹿児島藩77万石)の屋敷跡である。
この新橋~品川間などは海中に築堤したが、これは官軍主力藩の屋敷を避けたものとの説明を見る事があるが、むしろこの地帯に多く存在していた寺領を避けた、とする方が実測図などから見て合理的である。
他方、英国から技師と共に調達した鉄道資材は、英国鉄道人の常識からすれば極めて簡易で軽便な軌間の狭いローカル或は産業鉄道用資材で、一説にはニュージーランド用資材の転用とも言われている。
確かに、内戦終結から一年と経たない東洋の小国が試験的に鉄道を設けたものと見られて仕方も無いが、この1067ミリ狭軌鉄道がその後日本の鉄道標準となり、輸送力や速度に於いて欧米列強と比較して対抗の出来ない宿業となった。
その後、日本の鉄道史はこの狭軌鉄道の宿業に対する抵抗の歴史を重ねてきた。
更に、その明治初年で英国人はおろか、当の新政府幹部ですら想像も出来なかったであろう、半世紀と経たない時間で客貨双方の輸送需要が世界トップレベルにまで急増する事態に直面し、連結器の一斉交換や空気直通制動装置の標準化など、既にその需要は標準軌間1435ミリ妥当とする水準に達したのだが、狭い土地・起伏の激しい国土形状・国家財政の小規模などの要因がそれを許さなかったのである。
この一種コンプレックスが戦前の全区間標準軌間による高速鉄道、やがてプレストレストコンクリート・車内信号・自動列車停止装置などの列車保安システム・シリコン整流器による交流電化・航空機技術の発展である軽量電車の実現などを加味して東海道新幹線は実現するに至るのである。
明治5年の鉄道本格開業から半世紀で、日本の鉄道技術は複数外国から移転した技術を消化し、日本に適合させて更に改良を重ねて独自の「技術風土・技術文化」を構築したのである。
この外国技術の移転と、その消化による独自適合の技術風土・技術文化の確立は、同時に安全輸送確保に不可欠な要素であり、突然に新幹線0系が登場したものでは無い。
品川を汽笛一声して初列車(本格開業前)が、炭水車付蒸気機関車に牽引されて明治4年に発車して以来、醸成されて来たものである。
余談だが、鉄道博物館に展示されている1号機関車(バルカンファンドリー社製614号/国鉄150形/元島原鉄道1号機)が最初の列車を牽引したものでは無い。
このタンク機関車は建設資材輸送の為にいち早く日本に輸入されたもので、本格開業後には入換や短編成の小運転になどに使われ、関西地区での鉄道建設が始まると同時に神戸に運ばれている。
一方の中華人民共和国、中国大陸での鉄道は1876(明治9)年、清王朝の頃に英国によって上海に14.5キロの簡易鉄道が建設された事が始まりだが、これは数年で撤去されている。
公式なものとしては1881(明治14)年に産業用として敷設された馬力(実際には騾馬)のもので、蒸気機関車は翌年に使用開始されている。
実は日本でも慶応2(1866)年に蝦夷地で炭鉱が稼動開始し、米国人が設計して着工した石炭輸送用の材木をレールとした牛・馬力の簡易軌道があり、明治2年には使用を開始している。(軌間1050ミリ/2.8キロ/北海道後志国泊村・茅沼炭鉱鉄道。明治14年に鉄軌道化して軌間762ミリに変更の後、昭和2年に蒸気機関車導入。昭和37年11月12日廃止。)
日清戦争以降、中国に進出した列強国が鉄道を敷設し、太平洋戦争終結までは東北部や北京など華北方面は日本が占領した状態となり、皮肉にもこのエリアでは早くに車両・施設などの規格統一が成立している。
中華人民共和国成立以降、国内の鉄道は原則的に国鉄(政府鉄道部)が管轄するものとなったが、米英仏蘭日と複数国が各々の規格で乱設し、輸入した車両の整斉には多くの時間を要する事になる。
また同時に共和国成立時には電化路線は皆無で、近年まで幹線で蒸気機関車が現用されていた技術風土で、電気鉄道の技術は輸入に頼らなければ成らなかったのである。
中華人民共和国は共産主義国家ではあるが、ソビエト連邦とは全く異質な展開を辿って来た。
それは鉄道技術に於いても同様である。
1993(平成05)年頃から中国国鉄では主要幹線の電化高速化を打ち出し、自国開発の高速列車も登場させたが相次ぐ故障などで輸入に方針を転換、そこで仏(アルストム社)・日(川崎重工業)・独(ジーメンス社)・カナダ(ボンバルディア社)と技術供与による合弁として車両などの製作に着手した。
また軌道・信号・電気などについても海外技術の移転を画策し2007(平成19)年には最高時速250キロによる専用鉄道を経由した列車も登場した。
更に中国政府は移転した技術を改良し、「これは我が国独自の技術である」と宣言し、その特許を諸外国に申請した矢先に温州での高速列車追突事故が発生したものである。
中国が性急とも思える程に高速鉄道建設を急いだのは、国際経済との連携が経済発展を実現しているにも関わらず、その国際経済の停滞下降を無視して独自に経済発展を「政治的」に上昇させようとした、と私は考えている。
しかし、十億超の国民を抱え、過去に幾度も内戦の如き悲劇を重ねた国土を考えると、それは暴政と簡単に言えない。
確かに技術を提供した側の国に住み、その技術を開発した基盤たる日本国有鉄道で禄を食んだ者として個人的にはこの一連の中国政府による技術独自開発の宣言と特許申請は義に反する行為と批判もしたくなる。
言い換えれば、百五十余年の蓄積した技術をわずかな資金で買って、今度はそれをオレのものと言ったに等しいのである。
しかし冷静に見ると、そこに見えて来るのは諸外国の技術を導入した段階でしか無く、未だ中国の国土に適合しその技術風土・技術文化、何よりも個体としての人間に対する文化が明確化されていない中国の政治的特性が、何処かで安全輸送は鉄道の根幹である、と言う日本では至極当然常識以前な原則が通用していない現実を、その後の鉄道部や政府の対応から感じてしまうのである。
だからとて、その部分だけを取り出して中国人は安全意識が低い、などと罵倒も出来ない。
そんな鉄道安全技術では世界最高レベルである日本でも、運転士の心理的抑圧が原因の一つであるとされた107名の犠牲を出した福知山線事故(平成17年04月25日)や、死亡事故に至らぬものの富良野駅衝突事故、最近も高速で走る特急の脱線火災事故があったばかりである。
どんなに多重に安全・防護の仕組を重ねて置いても、人間と言う不完全にして感情で行動が左右される生物がそれを制御し運転する限りに於いて事故は避けられない。
だからこそ、事故を未然に防ぐためには技術と共に、その安全や職務遂行に対する精神力が必要なのであり、また事故が起こった場合に於いて、とにかくも犠牲者を出さない仕組が不可欠なのである。
分割民営化から四半世紀に近くなり、経済停滞や産業構造の変革から鉄道を取り巻く環境は危険な状態として変化している。
温州事故は技術の醸成の完了していない、未成熟な技術によって引き起こされた人災だったと仮に断定して、それは中国の報道記事として私は読めない。
まして日本が今次事故で救援や支援などをしたとしても、それは国民に潜在的ながら確実に存在する共生意識「和を以て尊きと為し」の精神を彼等に説くぐらいのものである。
何かを以て教えを請うとすれば、教わる側に謙虚と師弟の礼節は不可欠である。
それが見えない者に何事か言ったとしても、それは嫌味程度にしか聞こえないだろう。
中国高速鉄道と共に、かの大地、かの国の醸成はかの民衆が季節が移るが如く自然に感じて、自然に味わい、自然に行動し、自然に変革せしむるものであり、他国がどうのと言うも、その独特の風土文化が個々にあって、技術も産業も人間も同様であるとの認識を持つべきである。
但し、その季節の変わり目には嵐も雷もあろう事は自然の道理である。
国は違えども、鉄道の安全輸送を使命とした組織に在籍するものとして、今次事故の犠牲者に深く哀悼の意を表すと共に、かの鉄道や庶民が苦渋や後悔の歴史を刻む事が無い事を深く祈願するものである。
特定非営利活動法人交通文化連盟理事長