ブログネタ:休日、目覚ましかける?かけない? 参加中もののふの 心得ぞある おなご哉
小生
個人的に
日本史に登場する武将の中で
最強なのは
源義仲
側室でございます
巴さん
じゃ無いかと
思っております。
ま
木曾軍上席戦術参謀
として
幾つかの合戦に出陣しているのは
事実ですし
「女性の武士」
は
何も源平の頃ばかりでは無く
戊辰戦争に於ける
会津・若松城下の
「娘子隊」
など
近代でも存在致します。
女性の持つ
強靭な目的達成意欲は
男性のそれに対して
単純ですが明快にしてブレません。
屁理屈を言い
怖いものから逃げる姿勢は
女性の本性からしても
受け入れられるものでは
無いのかも知れません。
にしても。
このところ
女学生に人気のゲーム由来の
テレビ漫画で
「流山の新選組」
が出る
との事で拝見致しましたが・・・
いや。
いやいや。
実は
史実と創作の区別が付かない方と申しますのは
観光の御案内を実施する側にとって
とても
「辛い御客様」
なのです。
良し悪しでは無く
「辛い」。
これは
ドラマや
映画で
新選組が出て参りますと
必ず発生する現象でございますが
「教科書ではそうなっておりますものの・・・」
と
ご説明して
その上で
「確認の出来る限りでの史実」
を御案内致します・・・
その上で
「その作品ではそう描かれてございますが・・・」
と
差異の御説明を・・・
が。
今回は
その「差異」を御案内する以前に
「あれは創作、これは現実」
と
御案内をしなければなりません・・・
これ
面倒だ
などと端折ると
トンデモ無い御印象を受けて
全く違う事に変化して参ります。
で。
流山新選組本陣跡
で
現在「土蔵」
が
モニュメントとなっておりますものの
あれは
「実用中」
で
あの位置には
明治19年になってから移築されたものでございます。
現在
現地の御所有をなされていらっしゃいます
秋元家(秋藤家)の伝承では
地元で「長岡屋」とされている
「鴻池の酒屋」(鴻池本家・長岡儀兵衛)
を
明治17年に「志摩屋」から購入した際に
ございました「母屋」
は
現在の「母屋」とは別の場所に築造されていたもので
近藤勇(大久保大和守剛)
と
土方歳三(内藤隼人)
が
新選組(徳川陸軍隊或は大久保隊※1)
を率いて
武州足立郡五兵衛新田(現・東京都足立区綾瀬四丁目※2)
から
水戸道中(水戸街道。※3)
を経て現地に到着した
慶応四年四月(先発班は一日に、本隊は二日に現着との類推が合理的)
に
「使われた」
のはその
「旧母屋」
であり
近年になり
流山市博物館に展示された
「長岡屋蔵階段」
は
平成になって取り壊された
倉庫
の部材です。
また
官軍がここへやって来た四月三日
「長岡屋」
には
幹部数名が残るだけで
残りの200余名
は
近隣の山林で
銃使用教習(※4)
をしていたと伝わっております。
その「官軍」こと
東征軍先鋒隊宇都宮斥候隊
は
埼玉県側を岩槻方面に偵察の為に移動中
流山に参集した「徳川軍」
の情報を得て
部隊を分割し
審問の為に面会を求めて
「大久保大和」
の
板橋・先鋒隊本営出頭
を
命じております。
研究によるとこの際に
野村利三郎
村上三郎
の二人が「大久保大和」に随行している為
「逮捕」
つまり自首や捕縛と言うよりは・・・
もっとも罪状が「無い」ものですから
「事情聴取の為の任意同行」
と言うべき状態だったのでございます。
ところが。
四月二日には
流山の市街地に居住する殆どの方は
「避難勧告」
を受けて不在
との
地元資料などもあり
この事態を目撃していた第三者が不在でった
事や
後々「官軍」の時代が
昭和20年09月まで続くのですから
その「薩長新政府」の時代に於いて
「賊軍に関与すれば子々孫々に累を及ぼす」
との考え方
また
四月十一日の江戸開城に伴う
徳川方兵士の脱走
暴走
新政府方暴徒
などなどが
この土地を忙しく通過している事などから
「紛然」
となっている事の情報錯綜が
「流山の新選組伝説」
を
多様に作り上げてしまった
と言う事がございます。
その肝心の資料・物象が
特に高度に軍事的機密を帯びていれば
秘匿されることは当然で
6年も御案内を続けておりますものの
その
「決定的史実」
は
今も全くございません。
とはいえ
年間平均して1.6万人(北総新選組による実測値※5)の御客様が
御来訪をされていて
特段としたテーマパークでも
記念館でも無く
平凡な
とてものんびりとした
町の裏道に面した史跡でございます。
目立つものが無ければ
見過ごしてしまう・・・
更に
辿り着いても駐車する処は?
お手洗いは?
記念品などの売店は?
史跡って、何があったの????
などなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
流山市
千葉県
日本国
の何れからも資金どころか(※6)
精神的支援も無く
観光協会のごく一部の方などは
「無視」
やら
「事業継続の妨害」
を画策する有様。
しかし
我々の最大にして最強の御味方は
その本陣所有者であられる
秋元家の皆様
閻魔堂管理者であられる
寺田茶舗の皆様
歴史研究家のあさくらゆう先生
そして
根郷・本町に御住まいの皆様であり
全国に居られて
衣装を寄贈されたり
ブログなどに御声援を賜っております
御支援者の皆様方
でございます。
その本陣を守るのは
学生だったり
主婦だったり
会社員だったり
公務員だったり
役者だったり
と言う
まさに
名も無く
市井に生活し
とても金銭的に裕福では無いものの
義心と慈悲に厚き
全く「男の前の男」・・・・
いや・・・・・・
数値の割合では
「男前の良い女子達」
にございます。
その彼等や彼女等
流山市民は1名(第三業務隊所属。他に隊長と第一機動警備隊隊員が各1名の計3名)で
最近は
松戸市
柏市
三郷市
と多く・・・・
他に
印西市
八街市
市原市
と
長野県や
岡山県にも
「闘士」
がおります。(※8)
時折
第一機動警備隊が
応援に出て参りますが
女子とて
「こわ~い」
やら
「いや~ん」
なんて
女子っぽい台詞は聞きません。
ここに来て
浅葱羽織(※7)を着
本陣に立哨すれば
全員が
「もののふ」
でございます。
それこそ
交通費も食費も自己負担
会費こそ頂かないメンバーばかりですが
その論功や経験・人格に応じて
階級もあります。
決して高い会費を納めたら幹部になれる
と言う能天気なモンでは
ございません。
加えて
休日なんざぁ
ゆっくり寝たいと申しますのが人情。
時計の目覚ましの
何とウルサイ事やら・・・
そんな貴重なウダウダタイムを
削って
現場に出て来るのでございます。
ま
もっとも
同じ出て来るなら
もう少々早めに頼みたいんですがねぇ・・・
第一に
本来の名の通り
「鉄道輸送警備隊」
です。
隊の実務指揮者は
「列車添乗輸送警備の経験が必須」
なのです。
現行の隊長は
実務指揮者
と言うよりも
活動の根幹である
「観光創造プログラム」
に於ける
「総合デザイナー」
としての役割で
任じられておりますので
弊隊では最初にして唯一の
「列車添乗実務経験の無い隊長」
ですが
この将の
肝の座り方が
並大抵ではございません。
更に
平成15年07月から
当該プログラムの「本陣守備」に於いて
実施指揮者に任じられている
副隊長
とて
愚痴は多いものの
その忍耐力は
これまた
普通じゃございません。
弊連盟の中で
最大の赤字事業ですが
これを「仕分」ますと
弊連盟事業の中で
最高の名誉職務。
誰が褒めるものでも無いかも知れません。
喧伝して有名なモンでもございません。
しかし
ちょっと「現実の生活」に疲れたら
ここで
「サムライ」
になってリセット&リフレッシュする。
それは
「私利私欲」
で出来
また
続けられるものでもございません。
この
「無冠の武士達」
は
特定非営利活動法人交通文化連盟
の至高財産であり
我々
鉄道輸送警備隊執行幕僚
至高の誉
でもございます。
同時に
三十余年の
それこそ無名無冠無賞の武将達の名誉は
この武士達があればこそ
永遠でございますし
その栄誉は
今日
現場に出ている
或は
支えている
「もののふ」
全ての名誉なのでございます。
平成乱世の「巴」将達の誕生日を記念して、安房守義将是記(※9)
<解説>
※1
徳川陸軍別隊とも。徳川家は大政奉還以降、単なる一大名家となったものの、その陣容・装備・領土は依然として日本最大でございました。
この陸軍総裁→陸軍奉行配下の部隊として位置付されたと推定されております。(流山移転直前までの金子家文書記録等から)
但しその名称は不明確、或は特定した「看板」は無かったとされており、便宜的に徳川陸軍隊と呼称するのを多く見掛けますが、「新選組」若しくは「甲陽鎮撫隊」と言う部隊名で無かったのは確かです。
また下総鎮撫隊などとの表記も見掛けますが、それは全くの個人創作。
※2
五兵衛新田にあった渕江領名主見習・金子健十郎邸を本拠として、慶応四年三月十三日から四月一日まで「大久保大和」が滞在したとされております。
当初48名が移転時には227名となっており、江戸城無血開城・徳川軍武装解除に従わなかった徳川方歩兵等を収束したと類推されております。
西綾瀬とした記述も見掛けますが、西綾瀬と綾瀬は別の場所です。
また「荒川を渡り・・・」と言う方もいらっしゃる様ですが、現行の荒川こと荒川放水路は岩淵水門~中川河口迄の約22キロの人口河川で、大正13年10月12日に通水式を行い、昭和05年に完成としたものですから、新選組が通過した時には川は無かったのです。
※3
五兵衛新田・金子左内邸滞在中に製造及び調達した資材の大半は、荷車で新宿(現・葛飾区新宿)に運ばれている記録が残っております。
これは当時の道路整備状態に関係したもので、幅員・道床盛施工の基準が、それら「貨物輸送幹線」にも使えた「水戸道中」区間と、その他「裏街道」の差異がございます。
「大久保隊」が徳川家正規部隊であった事と、視認防止施策のあった水戸道中を選択した事の方がむしろ自然で、先発の「段取チーム」は軽装でも問題が無く、また「農家物資輸送用」の簡易な川船による「渡し」を使って最短距離を通過した事は難がありませんが、200名が鉄砲など(大砲装備との記載も散見)を抱えて徒歩で移動した場合、幅員が狭く、身隠箇所の少ない・・・・しかも一部は徳川家外の領地に隣接した「農道兼観光用道路」を使う事の方がむしろ不自然で官軍に察知され易く、何より「行動のしにくい」農地の真ん中にある道は、近代戦略の常識的見地からしても「避けるべき」箇所であります。
ちなみに常磐線が流山を経由しなかった最大の要因は、この埼玉側に広がる肥沃で良い糧食が収穫出来た地域の地盤が、福島・浜通地域産出の石炭輸送を第一として設計された「日本鉄道海岸線」の高重量列車通過に耐えられる「道床築造」に適さなかった事でございます。(当初は東北本線川口から分岐して流山・土浦を経由して友部に至るものとして構想されたとか。このお話は昭和にも引き釣りまして、東京外環状線こと現・武蔵野線の工事に際し、本来が常磐~東北~中央~東海道への貨物列車パイパス路線だった事で、この三郷~南越谷間の築堤工事は他地同種工事より時間・費用共に多くなっております。近年、越谷レイクタウン新駅築造に際して線路を新設移動した際に、それまでの重耐強度が落ちてしまったもので、砕石輸送列車が同線を通過出来なくなり、現在は「ツミ便」(貨物積載便)が隅田川~田端を経由している有様です・・・)
※4
当時、徳川方には多種多様の鉄砲が入っており、欧州では精度・性能共に優れモノとされたシャスポー式ライフル銃(元込/ペーパーカートリッジ式シャスポー弾)を筆頭に新旧ございました様子ですが、「大久保隊」が所持していたと推測されるものはライフル・マスケット銃(ブリチェット弾)の一種でエンフィールド(ミニエー)・ライフル銃(先込)だったとするのが適当な様です。(シャスポーやその原型でもあるドライゼを装備していたとの記述もあります。)
また、当時は東西両軍共に先込・滑空式ゲーベル銃が「標準」であり、その後西軍各藩が「ゲーペル簡易改造エンフィールド方式銃」に急速転換し・・・と、これは夏の頃前後の事だそうで、会津攻撃時に於いて「弾薬供給ルート」である仙台・新潟を西軍に抑えられた奥羽越軍は鉄砲活用による戦術が十分採れなかったとされています。(これが後年に「新式装備に優れた官軍が勝った・・・」と端折られる一因になったのかも知れません。)
※5
平成16年03月からの計測累計値。但し、実は着手当初の3日間は計測していなかったり、受付担当要員が至急事案でカウンターに不在となり、この計測漏れも多々確認されております。
また平日に試験的実施した数値から推定される「延べ推定御来訪客数」は、約35万3000人で一年平均で約5万8000人と計算しております。
※6
平成17年03月に当時、流山市が中心となって展開された「新選組流山隊実行委員会」が、特定非営利活動法人交通文化連盟に感謝状を発行・交付し、それを流山商工会館で行われた「解散式」で受け取った事がありますが、「非特定営利法人 交通文化連盟殿」と記載が・・・
またその節に商工会第二支部が実行委員会から受け取った助成金の一部、2万円が弊連盟マップへの広告掲載料として受領した事はございます。
※7
株式会社秋元・ましや・総武流山電鉄(当時)の三者共同で出資してキャンペーングッズが作られ、流山市役所に「寄贈」されました。
これとは別に観光協会の予算でグッズが作られた事がありますが、「三者共同」は「浅葱色」の統一したイメージのものが作られており、観光協会のグッズは「黒と赤」デザインのものなど混在ですが、関係者証言などでは有志で出資して別個に作られた「羽織」20着がやはり流山市(実行委員会)に寄贈されたそうです。
どなたか観光協会の幹部の方が、観光協会で作った的な発言をされていると伺いましたが、実行委員会が解散の後に便宜的にそれらは商工会が所管するものとなっておりましたが、その所有権は既に消滅していると解釈も出来、その関係者の皆様と協議の上、現在は恒常的に10着を弊北総新選組で使わせて頂いております。
当該羽織に関しては過去二度程、「観光協会幹部」を名乗る人物が商工会を来訪し、北総新選組が「占有しているのは不当」と言い出してクリーニング代金を別途とする返還を要求しました。
これに関して株式会社秋元社長氏が商工会に赴き糾した処、この要求が消滅しました。
また本年03月31日には、「10着しか無い羽織を北総新選組が占有しているのは不当で、これを返還させろ」とやはり観光協会幹部を名乗る人物が商工会に現れ、これに関して「本来20着製作したものが半数になっている事」及び「現在の法的に見た所有者は誰か」と質問した処、以降商工会並びに商工会議所からの返還要求はございません。
本件はとある新聞社の記者さんにご報告したもので、その取材過程で「立ち消え」となった可能性もありますが・・・
※8
現在の特定非営利活動法人交通文化連盟の「社員」は14名。
これとは別に会費を徴収しない特定準会員(ボランティア)は前回統監で47名でした。
この61名が弊連盟メンバーとなりますが、このうち北総新選組こと第三業務隊は35名です。
が・・・・
一部のメンバーが第一機動警備隊研修小隊や総隊幕僚部に所属となっている事から、「北総新選組」の担当隊員全体としては44名となっております。
ごく稀に「地元のNPOじゃ無いから余所者」と言う台詞を伺いますが、地元の・・・にこだわる特定非営利活動法人さんで、メンバーも全員その市町村居住者で、二十年以上の実績があり、汽車やらイベントやらを自前で転がして、安全保障は自前で固めて、公的資金ゼロで続けており、体系的ワーキングシステムと実効的組織展開が可能で、且つ平均年齢50歳以下と言う組織がございましたら、是非御紹介下さいませ。
そんな詰まらない「国境」を取り除かないと、本気で動ける「真っ直ぐバカ」なシステムは組成出来ません。
そりゃ断言。
※9
弾正少弼殿
式部少輔殿
志摩守殿
お誕生日おめでとう!!!!
小生
個人的に
日本史に登場する武将の中で
最強なのは
源義仲
側室でございます
巴さん
じゃ無いかと
思っております。
ま
木曾軍上席戦術参謀
として
幾つかの合戦に出陣しているのは
事実ですし
「女性の武士」
は
何も源平の頃ばかりでは無く
戊辰戦争に於ける
会津・若松城下の
「娘子隊」
など
近代でも存在致します。
女性の持つ
強靭な目的達成意欲は
男性のそれに対して
単純ですが明快にしてブレません。
屁理屈を言い
怖いものから逃げる姿勢は
女性の本性からしても
受け入れられるものでは
無いのかも知れません。
にしても。
このところ
女学生に人気のゲーム由来の
テレビ漫画で
「流山の新選組」
が出る
との事で拝見致しましたが・・・
いや。
いやいや。
実は
史実と創作の区別が付かない方と申しますのは
観光の御案内を実施する側にとって
とても
「辛い御客様」
なのです。
良し悪しでは無く
「辛い」。
これは
ドラマや
映画で
新選組が出て参りますと
必ず発生する現象でございますが
「教科書ではそうなっておりますものの・・・」
と
ご説明して
その上で
「確認の出来る限りでの史実」
を御案内致します・・・
その上で
「その作品ではそう描かれてございますが・・・」
と
差異の御説明を・・・
が。
今回は
その「差異」を御案内する以前に
「あれは創作、これは現実」
と
御案内をしなければなりません・・・
これ
面倒だ
などと端折ると
トンデモ無い御印象を受けて
全く違う事に変化して参ります。
で。
流山新選組本陣跡
で
現在「土蔵」
が
モニュメントとなっておりますものの
あれは
「実用中」
で
あの位置には
明治19年になってから移築されたものでございます。
現在
現地の御所有をなされていらっしゃいます
秋元家(秋藤家)の伝承では
地元で「長岡屋」とされている
「鴻池の酒屋」(鴻池本家・長岡儀兵衛)
を
明治17年に「志摩屋」から購入した際に
ございました「母屋」
は
現在の「母屋」とは別の場所に築造されていたもので
近藤勇(大久保大和守剛)
と
土方歳三(内藤隼人)
が
新選組(徳川陸軍隊或は大久保隊※1)
を率いて
武州足立郡五兵衛新田(現・東京都足立区綾瀬四丁目※2)
から
水戸道中(水戸街道。※3)
を経て現地に到着した
慶応四年四月(先発班は一日に、本隊は二日に現着との類推が合理的)
に
「使われた」
のはその
「旧母屋」
であり
近年になり
流山市博物館に展示された
「長岡屋蔵階段」
は
平成になって取り壊された
倉庫
の部材です。
また
官軍がここへやって来た四月三日
「長岡屋」
には
幹部数名が残るだけで
残りの200余名
は
近隣の山林で
銃使用教習(※4)
をしていたと伝わっております。
その「官軍」こと
東征軍先鋒隊宇都宮斥候隊
は
埼玉県側を岩槻方面に偵察の為に移動中
流山に参集した「徳川軍」
の情報を得て
部隊を分割し
審問の為に面会を求めて
「大久保大和」
の
板橋・先鋒隊本営出頭
を
命じております。
研究によるとこの際に
野村利三郎
村上三郎
の二人が「大久保大和」に随行している為
「逮捕」
つまり自首や捕縛と言うよりは・・・
もっとも罪状が「無い」ものですから
「事情聴取の為の任意同行」
と言うべき状態だったのでございます。
ところが。
四月二日には
流山の市街地に居住する殆どの方は
「避難勧告」
を受けて不在
との
地元資料などもあり
この事態を目撃していた第三者が不在でった
事や
後々「官軍」の時代が
昭和20年09月まで続くのですから
その「薩長新政府」の時代に於いて
「賊軍に関与すれば子々孫々に累を及ぼす」
との考え方
また
四月十一日の江戸開城に伴う
徳川方兵士の脱走
暴走
新政府方暴徒
などなどが
この土地を忙しく通過している事などから
「紛然」
となっている事の情報錯綜が
「流山の新選組伝説」
を
多様に作り上げてしまった
と言う事がございます。
その肝心の資料・物象が
特に高度に軍事的機密を帯びていれば
秘匿されることは当然で
6年も御案内を続けておりますものの
その
「決定的史実」
は
今も全くございません。
とはいえ
年間平均して1.6万人(北総新選組による実測値※5)の御客様が
御来訪をされていて
特段としたテーマパークでも
記念館でも無く
平凡な
とてものんびりとした
町の裏道に面した史跡でございます。
目立つものが無ければ
見過ごしてしまう・・・
更に
辿り着いても駐車する処は?
お手洗いは?
記念品などの売店は?
史跡って、何があったの????
などなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
流山市
千葉県
日本国
の何れからも資金どころか(※6)
精神的支援も無く
観光協会のごく一部の方などは
「無視」
やら
「事業継続の妨害」
を画策する有様。
しかし
我々の最大にして最強の御味方は
その本陣所有者であられる
秋元家の皆様
閻魔堂管理者であられる
寺田茶舗の皆様
歴史研究家のあさくらゆう先生
そして
根郷・本町に御住まいの皆様であり
全国に居られて
衣装を寄贈されたり
ブログなどに御声援を賜っております
御支援者の皆様方
でございます。
その本陣を守るのは
学生だったり
主婦だったり
会社員だったり
公務員だったり
役者だったり
と言う
まさに
名も無く
市井に生活し
とても金銭的に裕福では無いものの
義心と慈悲に厚き
全く「男の前の男」・・・・
いや・・・・・・
数値の割合では
「男前の良い女子達」
にございます。
その彼等や彼女等
流山市民は1名(第三業務隊所属。他に隊長と第一機動警備隊隊員が各1名の計3名)で
最近は
松戸市
柏市
三郷市
と多く・・・・
他に
印西市
八街市
市原市
と
長野県や
岡山県にも
「闘士」
がおります。(※8)
時折
第一機動警備隊が
応援に出て参りますが
女子とて
「こわ~い」
やら
「いや~ん」
なんて
女子っぽい台詞は聞きません。
ここに来て
浅葱羽織(※7)を着
本陣に立哨すれば
全員が
「もののふ」
でございます。
それこそ
交通費も食費も自己負担
会費こそ頂かないメンバーばかりですが
その論功や経験・人格に応じて
階級もあります。
決して高い会費を納めたら幹部になれる
と言う能天気なモンでは
ございません。
加えて
休日なんざぁ
ゆっくり寝たいと申しますのが人情。
時計の目覚ましの
何とウルサイ事やら・・・
そんな貴重なウダウダタイムを
削って
現場に出て来るのでございます。
ま
もっとも
同じ出て来るなら
もう少々早めに頼みたいんですがねぇ・・・
第一に
本来の名の通り
「鉄道輸送警備隊」
です。
隊の実務指揮者は
「列車添乗輸送警備の経験が必須」
なのです。
現行の隊長は
実務指揮者
と言うよりも
活動の根幹である
「観光創造プログラム」
に於ける
「総合デザイナー」
としての役割で
任じられておりますので
弊隊では最初にして唯一の
「列車添乗実務経験の無い隊長」
ですが
この将の
肝の座り方が
並大抵ではございません。
更に
平成15年07月から
当該プログラムの「本陣守備」に於いて
実施指揮者に任じられている
副隊長
とて
愚痴は多いものの
その忍耐力は
これまた
普通じゃございません。
弊連盟の中で
最大の赤字事業ですが
これを「仕分」ますと
弊連盟事業の中で
最高の名誉職務。
誰が褒めるものでも無いかも知れません。
喧伝して有名なモンでもございません。
しかし
ちょっと「現実の生活」に疲れたら
ここで
「サムライ」
になってリセット&リフレッシュする。
それは
「私利私欲」
で出来
また
続けられるものでもございません。
この
「無冠の武士達」
は
特定非営利活動法人交通文化連盟
の至高財産であり
我々
鉄道輸送警備隊執行幕僚
至高の誉
でもございます。
同時に
三十余年の
それこそ無名無冠無賞の武将達の名誉は
この武士達があればこそ
永遠でございますし
その栄誉は
今日
現場に出ている
或は
支えている
「もののふ」
全ての名誉なのでございます。
平成乱世の「巴」将達の誕生日を記念して、安房守義将是記(※9)
<解説>
※1
徳川陸軍別隊とも。徳川家は大政奉還以降、単なる一大名家となったものの、その陣容・装備・領土は依然として日本最大でございました。
この陸軍総裁→陸軍奉行配下の部隊として位置付されたと推定されております。(流山移転直前までの金子家文書記録等から)
但しその名称は不明確、或は特定した「看板」は無かったとされており、便宜的に徳川陸軍隊と呼称するのを多く見掛けますが、「新選組」若しくは「甲陽鎮撫隊」と言う部隊名で無かったのは確かです。
また下総鎮撫隊などとの表記も見掛けますが、それは全くの個人創作。
※2
五兵衛新田にあった渕江領名主見習・金子健十郎邸を本拠として、慶応四年三月十三日から四月一日まで「大久保大和」が滞在したとされております。
当初48名が移転時には227名となっており、江戸城無血開城・徳川軍武装解除に従わなかった徳川方歩兵等を収束したと類推されております。
西綾瀬とした記述も見掛けますが、西綾瀬と綾瀬は別の場所です。
また「荒川を渡り・・・」と言う方もいらっしゃる様ですが、現行の荒川こと荒川放水路は岩淵水門~中川河口迄の約22キロの人口河川で、大正13年10月12日に通水式を行い、昭和05年に完成としたものですから、新選組が通過した時には川は無かったのです。
※3
五兵衛新田・金子左内邸滞在中に製造及び調達した資材の大半は、荷車で新宿(現・葛飾区新宿)に運ばれている記録が残っております。
これは当時の道路整備状態に関係したもので、幅員・道床盛施工の基準が、それら「貨物輸送幹線」にも使えた「水戸道中」区間と、その他「裏街道」の差異がございます。
「大久保隊」が徳川家正規部隊であった事と、視認防止施策のあった水戸道中を選択した事の方がむしろ自然で、先発の「段取チーム」は軽装でも問題が無く、また「農家物資輸送用」の簡易な川船による「渡し」を使って最短距離を通過した事は難がありませんが、200名が鉄砲など(大砲装備との記載も散見)を抱えて徒歩で移動した場合、幅員が狭く、身隠箇所の少ない・・・・しかも一部は徳川家外の領地に隣接した「農道兼観光用道路」を使う事の方がむしろ不自然で官軍に察知され易く、何より「行動のしにくい」農地の真ん中にある道は、近代戦略の常識的見地からしても「避けるべき」箇所であります。
ちなみに常磐線が流山を経由しなかった最大の要因は、この埼玉側に広がる肥沃で良い糧食が収穫出来た地域の地盤が、福島・浜通地域産出の石炭輸送を第一として設計された「日本鉄道海岸線」の高重量列車通過に耐えられる「道床築造」に適さなかった事でございます。(当初は東北本線川口から分岐して流山・土浦を経由して友部に至るものとして構想されたとか。このお話は昭和にも引き釣りまして、東京外環状線こと現・武蔵野線の工事に際し、本来が常磐~東北~中央~東海道への貨物列車パイパス路線だった事で、この三郷~南越谷間の築堤工事は他地同種工事より時間・費用共に多くなっております。近年、越谷レイクタウン新駅築造に際して線路を新設移動した際に、それまでの重耐強度が落ちてしまったもので、砕石輸送列車が同線を通過出来なくなり、現在は「ツミ便」(貨物積載便)が隅田川~田端を経由している有様です・・・)
※4
当時、徳川方には多種多様の鉄砲が入っており、欧州では精度・性能共に優れモノとされたシャスポー式ライフル銃(元込/ペーパーカートリッジ式シャスポー弾)を筆頭に新旧ございました様子ですが、「大久保隊」が所持していたと推測されるものはライフル・マスケット銃(ブリチェット弾)の一種でエンフィールド(ミニエー)・ライフル銃(先込)だったとするのが適当な様です。(シャスポーやその原型でもあるドライゼを装備していたとの記述もあります。)
また、当時は東西両軍共に先込・滑空式ゲーベル銃が「標準」であり、その後西軍各藩が「ゲーペル簡易改造エンフィールド方式銃」に急速転換し・・・と、これは夏の頃前後の事だそうで、会津攻撃時に於いて「弾薬供給ルート」である仙台・新潟を西軍に抑えられた奥羽越軍は鉄砲活用による戦術が十分採れなかったとされています。(これが後年に「新式装備に優れた官軍が勝った・・・」と端折られる一因になったのかも知れません。)
※5
平成16年03月からの計測累計値。但し、実は着手当初の3日間は計測していなかったり、受付担当要員が至急事案でカウンターに不在となり、この計測漏れも多々確認されております。
また平日に試験的実施した数値から推定される「延べ推定御来訪客数」は、約35万3000人で一年平均で約5万8000人と計算しております。
※6
平成17年03月に当時、流山市が中心となって展開された「新選組流山隊実行委員会」が、特定非営利活動法人交通文化連盟に感謝状を発行・交付し、それを流山商工会館で行われた「解散式」で受け取った事がありますが、「非特定営利法人 交通文化連盟殿」と記載が・・・
またその節に商工会第二支部が実行委員会から受け取った助成金の一部、2万円が弊連盟マップへの広告掲載料として受領した事はございます。
※7
株式会社秋元・ましや・総武流山電鉄(当時)の三者共同で出資してキャンペーングッズが作られ、流山市役所に「寄贈」されました。
これとは別に観光協会の予算でグッズが作られた事がありますが、「三者共同」は「浅葱色」の統一したイメージのものが作られており、観光協会のグッズは「黒と赤」デザインのものなど混在ですが、関係者証言などでは有志で出資して別個に作られた「羽織」20着がやはり流山市(実行委員会)に寄贈されたそうです。
どなたか観光協会の幹部の方が、観光協会で作った的な発言をされていると伺いましたが、実行委員会が解散の後に便宜的にそれらは商工会が所管するものとなっておりましたが、その所有権は既に消滅していると解釈も出来、その関係者の皆様と協議の上、現在は恒常的に10着を弊北総新選組で使わせて頂いております。
当該羽織に関しては過去二度程、「観光協会幹部」を名乗る人物が商工会を来訪し、北総新選組が「占有しているのは不当」と言い出してクリーニング代金を別途とする返還を要求しました。
これに関して株式会社秋元社長氏が商工会に赴き糾した処、この要求が消滅しました。
また本年03月31日には、「10着しか無い羽織を北総新選組が占有しているのは不当で、これを返還させろ」とやはり観光協会幹部を名乗る人物が商工会に現れ、これに関して「本来20着製作したものが半数になっている事」及び「現在の法的に見た所有者は誰か」と質問した処、以降商工会並びに商工会議所からの返還要求はございません。
本件はとある新聞社の記者さんにご報告したもので、その取材過程で「立ち消え」となった可能性もありますが・・・
※8
現在の特定非営利活動法人交通文化連盟の「社員」は14名。
これとは別に会費を徴収しない特定準会員(ボランティア)は前回統監で47名でした。
この61名が弊連盟メンバーとなりますが、このうち北総新選組こと第三業務隊は35名です。
が・・・・
一部のメンバーが第一機動警備隊研修小隊や総隊幕僚部に所属となっている事から、「北総新選組」の担当隊員全体としては44名となっております。
ごく稀に「地元のNPOじゃ無いから余所者」と言う台詞を伺いますが、地元の・・・にこだわる特定非営利活動法人さんで、メンバーも全員その市町村居住者で、二十年以上の実績があり、汽車やらイベントやらを自前で転がして、安全保障は自前で固めて、公的資金ゼロで続けており、体系的ワーキングシステムと実効的組織展開が可能で、且つ平均年齢50歳以下と言う組織がございましたら、是非御紹介下さいませ。
そんな詰まらない「国境」を取り除かないと、本気で動ける「真っ直ぐバカ」なシステムは組成出来ません。
そりゃ断言。
※9
弾正少弼殿
式部少輔殿
志摩守殿
お誕生日おめでとう!!!!