ブログネタ:ブログのタイトル、どうやって決めた?
参加中 新潟県南魚沼市小出。
上越線と只見線が交わるこの場所に今も母方家系の苗字を冠した土地がございます。
上杉弾正輝虎(謙信)の時代、
姉若しくは妹と言われている血縁者が、
越後・坂戸城(上越線六日町駅東側)主・長尾政景に嫁ぎ・・・
それこそ今年の大河の主人公はこの周辺が生誕地なのですが、
そこより魚野川を下りました処にございます。
景勝の時代に陸奥岩代・会津に移封されたものの、
この地域はそのまま上杉家の領地だったとかでして、
景勝がケチケチ家康の意地悪で出羽・米沢に移ってからも、
伝統的に小出は「会津鶴ヶ城」の主が管轄する土地だったのです。
維新の廃藩置県で新潟県に編入されて土地割と行政システムが整合されたのですが・・・。
さて・・・
父方は山本勘助晴幸に繋がる家系でして、
第四次川中島合戦以降もその子孫は武田家に仕え、
勝頼の時代に織田家の猛攻で主家甲斐武田家が消滅して、
その家臣団は四散しましたが、
同盟関係にあった上杉家に「甲斐山本勘助家」の一部は、
他の武田家家臣と共に仕えた様で、
この時代から暫くの間は歴史の舞台に出る事は無かったのですが・・・
幕末になり、
会津松平家の藩校・日新館に山本覚馬源良晴が登場するのは幕末・・・
後に大坂で緒方洪庵の適塾で蘭学を、
そして御府内(江戸)に出て・・・
勝麟太郎物部義邦の妹の亭主でもある、
蘭学者・佐久間修理平国忠(象山・信濃松代藩士)に、
勝(幕府直参)や、五稜郭の設計者となる武田斐三郎源成章(伊予大洲藩)と共に
西洋兵学・砲術を学びまして、会津藩の軍事近代化を成したものの失明、
後に西軍に身柄を拘束されたものの釈放されて、
京都府政を始めとして地方自治について指導者的な役割を果たした開明派です。
ちなみに京都府議会初代議長はこの人。
さて・・・・
同じ幕末にもう一人、山本家の人物が登場します。
こちらは「甲斐山本勘助家」の実家筋で、
どちらも同じ家系です。
清和源氏満政流(経基の・次男満政=鎮守府将軍)第二代忠重の連枝で、
承久の乱の頃に京方武将として登場する吉野冠者木田太郎源重季(戦死)の子が、
名前を端折って吉野太郎源重泰としまして、
この子孫のうち貞倫が駿河国富士郡山本村に移り住み今川家に臣従、
「駿河源氏」
となったのですが、
その子貞久あたりから「山本」と使い出した様子で・・・
この子若しくは孫の長男が「吉野」、次男が「山本」となった・・・
何れにせよ、
この「駿河源氏」の山本家の男子が一人、
当時今川の影響地域だった三河の大林家に養子(と言うよりは武士としての研修?)となり、
その大林勘左衛門と申しますのが、牛窪(牛久保)城主の牧野右馬允紀成定の家老でして、
その子源康成が上野大胡藩主なり、更に康成の子・駿河守源忠正の時代で越後長岡に領地を得て、
幕末まで続く「長岡藩牧野家」となります。
この頃に「山本成行」と言う人物が徳川家康の直参旗本になり、
その段階で牧野康成の付属とされ、
長岡時代には直参家格のまま上席家老連綿(譜代家老職家系)となっている・・・
この「山本成行」は一説で
「山本勘助出自同家」
とされているところから、
勘助晴幸が一時的に養子となった大林家と混同したか、
武田家滅亡後に勘助子孫が召抱えられたのか・・・
何れにせよ「大林家」の関係は浅くない様で・・・
幕末の長岡藩牧野家上席家老・軍事総督になった山本帯刀源義路は、
家老・河井継之助源秋義と共に武装中立を西軍に申し入れるものの、
軽輩だが陸援隊士だったと言う事で西軍東山道軍軍監となっていた、
岩村精一郎高俊(高知藩山内家)の無礼千万な一方的宣戦布告に対処して開戦・・・
この岩村ってえのはまぁともかく高慢で馬鹿を絵に描いた野郎だった様子でして・・・
河井が重傷のため会津・只見塩沢で死亡した後も山本義路は長岡藩軍を指揮し続け、
会津戦争(飯寺の戦い)で西軍に捕縛され、
全ての責任を負わされて斬首され・・・
さて・・・
明治十七年に新潟県長岡で高野貞吉氏の六男として生まれた男児がございまして、
お父さん56歳の時の子で名は「五十六」。
日露戦争時日本海で展開された露海軍バルト艦隊(バルチック艦隊)との戦闘で、
巡洋艦「日進」少尉心得として乗務中、
左手二指を失う負傷をし、
大正四年に牧野忠篤子爵の要請で戊辰戦争時に断絶した山本帯刀源義路家を相続、
山本五十六となった・・・
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官、その人です。
この山本長官が揮毫を頼まれると好んで書いたものが、
「常在戦場」
でして・・・
実は長岡藩牧野家の家訓的位置付けの言葉でもあり、
いわゆる山本勘助を祖と言う「甲州流軍学」の基礎でもあるとか。
それでタイトルを「常在戦場」としたものですが・・・
小生の軍学は「房州流」(笑)
その根本は、
「乱世に在っては常に戦場也、我一兵たりとも将たりとも最期に勝利するを心得とすべし」
でござい・・・
ただ難しいものでございます。
人を殺す軍学では無く、
人を活かす軍学でございますから・・・
御先祖様には誠に申し訳なくも、
義将の馬鹿をば今しばらく御笑覧下さいまし・・・