とにかくヘソマガリな小生です。
人が白だ、と言っても、その納得が自身の中にございませんと、どうも承服出来無いんですね。
こんな変態野郎の言うこってすからね、まぁ大目に見てやって下さいな。
で。
幕末維新に於いて、大きな役割と存在だったものに「軍艦」ってぇのがございます。
近代史の中でも非常に珍しい
「軍艦カッパライ作戦」
こと、
宮古湾海戦(明治二年三月二十五日/1869年05月06日)でも出て参ります、
「甲鉄艦」
の評価が、何とは無しに過剰な気がしてならないんですね。
まぁ結論から言えば、
「看板は大きいが実戦の役に立たない船」と思う。
ってぇのが、本音です。
そもそも・・・・
(通説の宮古湾アボルダージュ作戦)
劣勢に立たされていた蝦夷脱走幕臣団が、蝦夷地周辺の制海権バランスを崩す為に画策したもので、
官軍信号艦・甲鉄を接舷して奪取する作戦。
(安房の自説)
休戦講和により自治権の強い行政体の実現を画策した北蝦島政府軍が、西軍海軍力と士気の低下を実現し、よって早期の休戦講和に持ち込む事を意図して、西軍艦・甲鉄の奪取を目指した作戦。
でして・・・
(経緯)
北蝦島政府軍は、回天・蟠龍・高雄の三隻で出撃、低気圧や高雄の機関故障などで回天一隻での作戦実施を強行したが、甲鉄搭載のガトリング(奇環砲)などの応戦に出くわし、回天艦長・甲賀源吾は銃撃を受け即死、甲鉄甲板に乗り移って戦闘していた、流山で大久保大和守剛(近藤勇)に、村上三郎と共に西軍本陣まで随行した野村利三郎源義時をはじめとして多くが戦死したんでわ。
※ガトリングの装備は「甲鉄」では無く「春日」とする説もあります。裏付け度合いはこっちに傾くかなぁ・・・
乗艦していた海軍奉行・荒井郁之助顕徳は撤退を指示、その戦闘はわずか半時にも満たなかったとか・・・
ちなみに・・・
地元では野村義時の首無し遺体が浜に上がり、その墓を作ったと伝えられ、また相馬主計平肇(箱館新選組隊長)も負傷したと記録があります。
陸軍奉行並・内藤隼人(土方歳三)は回天に乗艦したと言うものもあれば、蟠龍に乗艦したと言うのもありまして、こりゃ定かじゃ無いんですが・・・
問題はこの作戦の内容じゃ無くて標的の持つ軍事的意味合いなんですわ。
船が足ら無ぇ。
こりゃまぁ深刻な、んでもって誰の眼にも明らかなモンですわな。
しかして、何故「甲鉄」だったのか。
単に「最強」の船ってなだけで狙うんかぇ?
ってな事ですわ。
実は・・・
木造船体に鉄板を貼り付けた「甲鉄艦」は、丸弾は弾き返せても、当時既に主流になり始めていた榴弾では貫通する事もあり、また炸裂弾では想定以上に被害が出たりと・・・
更に元々は木造の骨組みですから、鉄の上っ張りを付けたところで船体強度は上がるモンでも無く、
とにかくも・・・重くなるんですわ・・・
当時のエンジンの性能などから考えても、また実際の記録を見ても、大砲の数が少ないんです。
これが災いして、甲鉄軍艦=装甲木造軍艦は「コルベット」としての扱いしか受けないのが殆どだったんです。
コルベットと言うのは戦列艦とも言うとか・・・
複数の軍艦で艦隊を作って、作戦に従事すると言うモンでして、巡洋艦とも言えますか・・・
対してフリゲート艦ってぇのがありまして、こちらはこの一隻で戦闘単位となっちまったんです。
搭載する艦砲の数などによりまぁ区分されたんですが、こちらは戦艦と言っても良いでしょうね。
鉄張軍艦の歴史は結構古くて、1576年の「第二次木津川口海戦」で、毛利水軍を撃破した九鬼右馬允藤原嘉隆が推定12メートルの大安宅船を作ったとの記述が散らばってまして、その前後で巨大木造軍艦が作られている事やら、江戸幕府も鉄張船を作った事などから、まぁあったんでしょうねぇ。
ただ、信長公記等の記載をそのまま信用するのもちょいと危険ではありますが、毛利得意の焙烙(火矢)を防ぐってな性能は発揮したと類推されるんですな。
さて、西洋式装甲軍艦の歴史を見ると、1859年にフランス海軍で「ラ・グロワール」(5635トン)が、続いて翌年に英国海軍が「ウォーリア」(約9000トン)が就役し、1860年代前半には多く作られたものの、時流は「全鋼製軍艦」に傾きつつあったんですなぁ・・・
で、ここ登場するのがフランス海軍が沿岸警備用として企画した「スフィンクス」(1358トン/実長48メートル/速力10ノット/機関性能1200馬力2基/兵装大砲4~7門)が、アメリカ共和連合国軍(南軍)から売って頂戴、と来たモンで、これを売却し・・・
1864年06月21日、「ストーン・ウォール」と改名した「スフィンクス」が出来た頃にゃ、南軍敗北で米国南北戦争は終結、結果としてアメリカ合衆国海軍のコルベットとして就役したんですがね・・・
慶応三(1867)年、訪米中の徳川幕府派遣団が売って下さらぬか・・・・
と持ちかけて契約成立、銭を支払い(一説には半額)日本へ向かったんですが・・・
「ストーン・ウォール」が横浜に着いた時には、またまた御府内(江戸)にゃ幕府も無けりゃ徳川も居ない・・・
で、西軍(新政府)が今度は欲しいと言い出したんですな。
これが米国商人コスイこってね、内政不干渉で今は売れ無ぇとゴネた。
※勝安房守と榎本和泉守の外交戦略が引き渡し遅延に結実したのは事実っぽいですわ。
で、引き渡されたのが明治になってから・・・
実は・・・
この時点で東洋に於ける軍艦で、最大・最強にして唯一のフリゲート戦艦は、「開陽」(2590トン/72.8メートル/速力12ノット/帆走機関併用/機関性能400馬力/兵装26門)でして・・・
何せ設計から施工から、榎本釜次郎(和泉守藤原武揚)などのオランダ留学生達が関わり、実際にドルトレヒトから日本回航までやってのけた連中が乗艦しているんですから、そりゃ強い。
が・・・
明治元年11月に江差で座礁沈没しちまったんですから・・・
この時点では確かに最強は「甲鉄」となるんですが・・・
多分に榎本達は一つの「政略」をもっていたと推測しています。
そりゃ「慣れ」です。
引渡しから半年もしないうちに、確かに操艦技術では高い評価の中島四郎(萩藩)が艦長と言っても、不慣れな船ですしね・・・
第一、南部領の宮古は西軍にとっちゃアウェーですわ。
奪取出来なくとも、精神的威圧としては大きい・・・
それに対して結果を見れば、北蝦島政府軍は軍艦・高雄と幾多の人材を失い・・・
が・・・
榎本達がオランダで「開陽」の企画を練っていた時に、既に鋼製軍艦を提案されたとする記録があります。
予算的都合で木造とされたものの、大砲は頑張ってドイツ製クルップ式ライフル砲を付けたんですね。
これが装甲木造艦に効果的である事や、大砲の製造技術を習得した沢太郎左衛門平貞説などの技師を抱えていた事から反幕勢力にはこれで十分との「見切り」があったんでしょう。
そして・・・
帝国海軍成立時に甲鉄艦は「東」と改称、一時旗艦並として使われたものの、間も無く練習艦となり、最後は砲撃訓練の標的艦として明治二十一(1888)年01月28日に退役し、スクラップになったんですわ・・・
幕末時期に輸入或は建造された軍艦で、明治政府海軍成立後に練習艦に格下げとなった船は多いのですが、ちょっと鳴り物入りの船にしちゃあ短命・・・
ね・・・
アボルダージュが命運をかけた「戦闘継続の為の戦い」だったとする定説に間違いは無いものの、果たして何処までそれを買っていたことやら・・・
腑に落ちネェなぁ。