本日、10月14日は「鉄道の日」でございます。


 何だか多くのメディアは、


「日本で最初に鉄道が開業した日」


 なんて報道しておりますが、こりゃちょいと違います。


 この日・・・明治5年9月12日(太陽暦10月14日)は、明治天皇御臨席のもとに鉄道開業式典が挙行された日でございます。


 一般の営業は翌日から・・・


 ところが・・・


 前年明治4年10月8日には欧米視察に出掛けた岩倉具視などが横浜に向かう段階で、品川から汽車に乗って・・・と記録ございますし、これ以前にも試運転を見掛けた桂小五郎・・・木戸孝允の興奮した日記もございます。


 更に正式な年表では


「10月15日、新橋~横浜間鉄道営業を開始する」


 と、ございます。


 また産業用の軌道(人力・馬力)は徳川時代の慶応三年に北海道で使用が開始されております。


 この鉄道の開業は、その後の新政府・・・そして今日も続く日本の行政府の肝心なところではちょいと頼りない風体なのが、この頃から続くモンなんだわなぁ・・・と感じさせる一つの事件が切っ掛けに御座います。


 徳川家当時、アメリカ公使館の職員が申し立てた


「横浜港~江戸芝新座間れいろう」


 れいろう、とはレールロード、米国語の鉄道でございますが、この許可を徳川家は認めちまったんです。


 その直前に大政奉還しちまって、まぁヤケッパチなんでしょうが・・・


 この慶応三年十二月二十三日(1868年1月17日)に老中の肥前唐津藩主・小笠原壱岐守長行の名でアルセ・ポルトメン米国公使館書記官に出された「許可」・・・


 翌春にはさて官軍新政府に政権交代となりまして・・・


 この米国人、新政府に確認に出掛けたんですね。


「レイロォ、作ッテモ、イイカェ?」


 ちょいと前まで攘夷派の連中でございます。


「いや冗談では無い、んなモン一昨日きやがれ。」


 これに猛然と抗議・・・しますわなぁ・・・・


「テェヤンデェーベラボーメ!コチトラ裏金ダッテヤマホド使ッテンダゼ、銭カエセェ」


 いや、ポルトメンが江戸っ子だったかは解りませんが・・・


 明治二年二月二十九日(1869年4月10日)、新政府はポルトメンの許可状に対して、


「だってさぁ、前の地主の話だもんさぁ、オイラ達ぁそんなモン知ら無ぇから、ダメじゃん。」


 と無効であると通告したんですね。


 この一件はちょいと外交上の課題になっちまったんです。


「新政府ッテノハ、約束ヲ守ッテクレネェラシーゼ。」


 この批判をかわすってのもあって、未だ五稜郭で、榎本和泉守武揚率いる、北蝦島政府との戦争が終わって間もない明治二年十一月十日(1869年12月12日)、鉄道建設の廟議決定と相成る次第にて御座候。


 この頃、鉄道建設反対派の中核は西郷隆盛・陸軍大将兼近衛都督と岩倉具視・参議。


 が・・・


 現物を見たらすっかり開国派になっちまった岩倉ちゃん、後には日本鉄道の提唱者にオオバケしちまって、鉄道建設推進派として学校の名前にまでされちまった次第。


 ところが銭が無かった新政府・・・


 江戸無血開城と言われます、実は官軍7000に対しての徳川派35000完全包囲網作戦の軍事的威圧の中で、飲まざるを得なかった「反政府勢力処断放棄」の条件に対して付いて参りました、


「江戸150万市民・税収及び徳川領地800万石のうち720万石」


 まぁダイナミックキャンペーン期間だったモンで、軍艦や城・大砲なんかも付いて来たものの・・・


 この段階で新政府の税収が得られる土地は無かったんです。


 この貧乏新政府、鉄道なんざぁ銭回せるかっ!


 そりゃそうですよねぇ・・・ってな事で、日本最初の「外国販売の国債」を発行して凌いだんです。


 で・・・


 中古品の「軽輸送用資材」を売りつけられても・・・


 文句なんか言えなかったんですわ。


 これがその後、国家百五十年の脆弱を呼ぶなんて考えられなかったんでしょうねぇ・・・


 ポルトメンの計画ではレールの幅は欧米標準1435ミリだった、とどなたかが論文に書かれていらっしゃったんですが、これに対して1067ミリの「軽便用」がそのまま・・・


 いや・・・


 時速160キロで成田空港まで新設!


 とかね、


 時速130キロは在来線最速!


 なんてぇ言いますが、欧米では在来線の普通列車でも時速200キロなんてスタンダードです。


 この鉄道の日ってぇのは、


 当時の役人やら政府幹部が無知だった事で、その後の子々孫々に塗炭の苦しみを押し付けたっな・・・


 そんな恥ずかしい歴史の日でもございます。