「転生編」
二十二、再会(さいかい)
昭和(しょうわ)二十七(西暦1952)年10月2日、北海道(ほっかいどう)の国鉄(こくてつ)苗穂工場(なえぼこうじょう)では、1両の蒸気機関車(じょうききかんしゃ)がピカピカにみがかれて、工場(こうじょう)の人たちときねんしゃしんをとりました。
それは「静」でした。
日本(にほん)で鉄道(てつどう)が開業(かいぎょう)してから80年になることから、苗穂工場が夏からこうじをしていたものでした。
室蘭(むろらん)の製鉄工場(せいてつこうじょう)ではたらいてたのものを、もらってきてしゅうりをしたのですが、80年もたってしまった「静」は、まるでちがうすがたになっていました。
兵庫県神戸市(ひょうごけんこうべし)の国鉄鷹取工場(たかとりこうじょう)では関西副総支配人(かんさいふくそうしはいにん)・金沢寿人(かなざわひさと)が、工場からみえる山(やま)をながめていました。
「金沢(かなざわ)さん、なにをみてはるんですか?」
「あれが、一ノ谷ですよね、源義経(みなもとのよしつね)や弁慶(べんけい)が、平家(へいけ)の陣(じん)にせめこんだ、あのばしょですよね?」
「はぁ、そういわれとりますなぁ。」
「東京(とうきょう)の万世橋(まんせいばし)にある交通博物館(こうつうはくぶつかん)に、「弁慶」がいるんですよ。」
「大阪(おおさか)の帝国車両(ていこくしゃりょう)にある、「義経」の復元(ふくげん)のことですな。」
金沢(かなざわ)は、帝国車両にたのんでみました。
「あの「義経」とはおもえない、ちがうすがたになっているけれど・・・あれをなおしたいんです。」
「ええですな、ウチはかわりの機関車(きかんしゃ)ひとつ、もらえばそれでええですわ。」
帝国車両はのこっていたぶひん、などもくれました。
そして10月10日、明治(めいじ)十三年につくられたときのすがたに、ピカピカになって「義経」はかんせいしました。
そして、えんとつからはけむりがでて、ボイラにはあかあかと石炭(せきたん)がもえて、シューシューと息(いき)をしているように、していました。
国鉄本社(こくてつほんしゃ)からは工作局長(こうさくきょくちょう)島秀雄(しまひでお)もやってきました。
「いや、ごきげんのようですね。」
秋晴(あきば)れのなかで、「義経」もわらっているようでした。
「じゃ!いきまっせ!」
ポーッとたかい汽笛(きてき)をならして、「義経」ははしりはじめました。
となりには、D51(でぃーごじゅういち)蒸気機関車(じょうききかんしゃ)がはしってきていました。
ポーッ!ポーッ!
と、D51の機関士(きかんし)さんも、おいわいの汽笛をならしてくれました。
そのおとは、義経が戦(たたか)った、一ノ谷や福原(ふくはら)にもひびいてきこえました。
そして、10月14日。
あさから、東京(とうきょう)山手線(やまてせん)原宿駅(はらじゅくえき)のとなりにある宮廷(きゅうてい)ホームのまわりには、たくさんの人があつまっていました。
このホームはふだんは人がはいれません。
天皇(てんのう)やその家族(かぞく)がりょこうをするときにつかうものでした。
でも、この日はちがいました。
もくもくと、けむりがただよっていました。
それは「義経」のえんとつからでた、けむりでした。
そのまえには、札幌(さっぽろ)からやってきた「静」がいました。
そして、「弁慶」もいました。
北海道(ほっかいどう)・小樽(おたる)でわかれて35年がたっていました。
それをみて、おおくの鉄道(てつどう)マンたちは、ないていました。
「767年ぶりに、義経と弁慶は、静にあえたんだ!」
「弁慶」と「静」は、じぶんではしることはできませんでした。
大正(たいしょう)時代(じだい)にみがわりとなったことで、「義経」はじぶんではしれることになったのです。
「いまも、機関車になっても、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は、義経をまもっているのだ!」
そうおもうと、むねがあつくなるのでした。
ばんざい!
とかんせいがするなかで、
「いや、それがしが殿(との)をおまもりするのは、これからでござる。」
そんな「弁慶」のことばにきづく人は、まだいませんでした。
※「今と昔の機関車展示会」と題して開催された、鉄道開業80周年記念事業のメインイベントでございます。
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