二十一、昭和(しょうわ)の勧進帳(かんじんちょう)
東京(とうきょう)呉服橋(ごふくばし)にできた鉄道博物館(てつどうはくぶつかん)にかざられることになった「義経(よしつね)」は、いちど大宮工場(おおみやこうじょう)にはいり、きれいにすることになりました。
「義経(よしつね)」は東北本線(とうほくほんせん)を南(みなみ)へむかっていました。
とちゅう、平泉駅(ひらいずみえき)のてまえで、ひだりにこだかいおかがみえました。
それは、源義経(みなもとのよしつね)がさいごをむかえた、やかたがあったばしょでした。
機関車(きかんしゃ)にひかれた「義経」は9月1日に黒磯駅(くろいそえき)につきました。
そのひのよるには、大宮工場につく、よていでした。
そして、11時58分。
とつぜん、じめんがひくいおととともに、おおきくゆれました。
だれもたっていられないほどでした。
関東大震災(かんとうだいんさい)でした。
死(し)んだり、ゆくえがわからなくなった人は十四万二千八百七人にもなりました。
東京(とうきょう)と関東(かんとう)におおきなひがいがありました。
鉄道(てつどう)でも、万世橋(まんせいばし)・上野(うえの)などの駅(えき)がもえてしまい、川にかかった橋(はし)がおちたりしてしまいました。
そして、鉄道博物館もおおきくこわれてしまいました。
とてもかざる機関車をしゅうりするどころでは、なくなりました。
「義経」はそのまま黒磯機関庫(くろいそきかんこ)におかれることになりました。
昭和(しょうわ)11(西暦1936)年4月25日、ようやくなおされた万世橋の駅に、鉄道博物館がうつることになり、このひからこうかいがはじまりました。
そこに黒磯機関庫においてあったままの「義経」をかざることになりました。
そのころ、札幌鉄道局(さっぽろてつどうきょく)にふたりのがくせいがたずねてきました。
北海道帝国大学(ほっかいどうてこくだいがく=現在の北海道大学)の島崎英一(しまざきえいいち)と川上義幸(かわかみよしゆき)のふたりは、機関車(きかんしゃ)がだいすきでした。
そこで「義経」や「弁慶」などの北海道(ほっかいどう)の機関車(きかんしゃ)についてしらべていたのですが、そこでふしぎなことをみつけたのです。
札幌鉄道局は、大正時代(たいしょうじだい)に「義経」を東京(とうきょう)におくりだしたあと、こんどは「弁慶(べんけい)」をさがしていました。
その「弁慶」は大阪(おおさか)にいました。
島崎(しまざき)と川上(かわかみ)のふたりは、「弁慶」をしらべたのです。
すると、じゅうようなぶひんから「義経」のあかしであるしるしがでてきたのです。
島崎と川上かられんらくをうけた鉄道博物館では、もういちど「義経」についてしらべてみることにしました。
そして、札幌鉄道局にしらべてくださいと、たのみました。
すると、ボイラーは「義経」のものなのに、ほかのおおくのぶひんが「弁慶」であることがわかりました。
「弁慶」は「義経」のみがわりとなっていたのです。
でも、そのみがわりのほんとうのいみは、まだだれもしりませんでした。
札幌鉄道局ではせっかく「義経」「弁慶」がみつかったのなら、「静」もさがしたらどうろだろう、ということになりました。
しかし、中国(ちゅうごく)で戦争(せんそう)がはじまっていたころ、でしたから、しらべることはできないままに、なってしまいました。
※これについては異論もありましたが、本来は各部の部品についている機関車製造番号は、全部同一としている筈なのですが、調査をした島崎英一氏(後に北大理学部教授)によると、8両の7100型式蒸気機関車の部品番号は各々バラバラだったと言う事で、それは鉄道省札幌鉄道局の調査でも確認されていました。
どうしてバラバラになったのか、の理由として鉄道国有化の前に幌内鉄道のこの同じ型式の機関車の幾つかが、二度(岩見沢機関庫・手宮機関庫)火災に遭っている事が大きい原因では無いか、とする説が今日では一番有力です。
少ない高価な機関車が火災に遭ったとしても、簡単に交換など出来ない状態だった事から、各々をバラバラにして、取り敢えず使える状態の機関車を用意したものの、その後も使用が続けられた事から「元に戻される」事が無かったのでは無いか、とされるものです。
この「島崎研究」は台枠とシリンダーが機関車の基準として「身代り」を結論付けたものでしたが、異論としたものはボイラが基準であるとした推論で、製造をした米国ポーター社に資料を取り寄せて確認した「島崎論」を、当時の鉄道省が「敬意を表して」採用したとも言えます。
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