←まえのページ


二十、張碓(はりうす)


 明治(めいじ)二十年から三十年のあいだのおはなしです。


 あるまふゆの日、たくさんの(ゆき)がふりました。


 それに(うみ)からのつよい(かぜ)もくわわり、ふぶきになりした。


 札幌(さっぽろ)から手宮(てみや)にむかっていた列車(れっしゃ)が、日本海(にほんかい)のかいがんにそったところをはしっていました。


 すると、張碓第5随道(はりうすだいごずいどう=トンネル)のてまえで、雪がつもっていたところに機関車(きかんしゃ)がつっこんで、うごけなくなってしまいました。


 その機関車は「義経(よしつね)」でした。


 くるはずの列車がこないことにきづいた小樽駅(おたるえき=現在の南小樽駅)では、まちあわせでとまっていた列車機関車をきりはなして、おうえんにむかわせることにしました。


 駅員(えきいん)さんがそれをつたえに機関車にゆくと、機関士(きかんし)さんと機関助士(きかんじょし)さんは、


「それはたいへんだ!この機関車ぐうぜんだけれども弁慶(べんけい)号(ごう)だから、主君(しゅくん)をたすけにゆかないと、いけない!」


 といい、すぐにきりはなして機関車だけでおうえんにゆきました。


 でも、どこにとまっているのか、わかりません。


 ふぶきは、さらにひどくなりました。


 そして「弁慶」もうごけなくなってしまったのです。


 れんらくをうけた手宮(てみや)の機関庫(きかんこ)では、すぐにうごける機関車をさがして、できるだけおおくの係(かかり)の人をのせて、ふたつの機関車たすけにゆくことにしました。


 すると、すぐにうごける機関車ひとつしかありませんでした。


 それも「(しずか)」号でした。


 「」はきゅうえん客車(きゃくしゃ)をひいて、すごいふぶきのなかをはしりました。


 それは、むかしむかし、人間(にんげん)だった静御前(しずかごぜん)のすがたのようにもみえました。


 だいすきな人をたすけに、いっしょうけんめいにはしる静御前の、そのもののすがたでした。


 まふゆの、吉野(よしの=現在の奈良県の山)で義経永遠(えいえん)のわかれをした、そのだいすき義経弁慶たすけに、いま小樽(おたる)の海岸(かいがん)をはしっている。


 係の人たちは、むねがあつくなりました。


 「弁慶」はがんばって、まえにすすもうとしていました。


 それでも、おおくてうごけないのです。


 すると、とおくから汽笛(きてき)がきこえました。


「ああ!きゅうえんだ!」


 うしろからやってきたのは、「」でした。


 「」と「弁慶」は、よるになって「義経」をたすけだしました。


「ふしぎだなぁ、機関車になっても、おもいきもちはつたわるんだろうか?」


義経にあいたいとおもったきもちが、七百年もこえて、のりうつったんだ。」


 機関庫の人たちは、かえってきた「義経」「弁慶」「」をきれいにみがいてあげました。


 やがて、ちからのつよい、あたらしい機関車がつぎつぎとはたらきだすと、「弁慶」たちはいれかえや、こうじなどでしかつかわれなくなり、やがてほとんどこうじょうなどにうられて、ゆきました。


 大正十(西暦1921)年10月14日、鉄道省(てつどうしょう)は、呉服橋(ごふくばし=現在の神田~東京間)に鉄道博物館(てつどうはくぶつかん)をつくりました。


 そして、北海道に、ぜひ「義経」号をかざりたい、とれんらくがありました。


 いちど、大宮工場(おおみやこうじょう)できれいにしゅうりやかざりつけをしてもらうことにも、なりました。


 そして大正十二(西暦1923)年8月29日、「義経」は札幌機関庫(さっぽろきかんこ=現在の苗穂運転所)をしゅっぱつしてゆきました。


→つづきはこちら

<御案内>

パソコン経由で閲覧の方は、ページ左のブログテーマ一覧より「文書屋笑衛門」(ふみかきやしょうえもん)を選択して頂きますと、まとめてご閲覧頂けます。