「幌内鉄道編」
十九、手宮工場(てみやこうじょう)
明治13(西暦1880)年1月8日、小樽(おたる)の若竹第三随道(わかたけだいさんずいどう=トンネル)からこうじがはじまった、北海道(ほっかいどう)でさいしょの鉄道(てつどう)、幌内鉄道(ほろないてつどう)のけんせつは、とてもはやいスピードですすんでゆきました。
そのころ、アメリカのポーター社(しゃ)でも幌内鉄道でつかう蒸気機関車(じょうききんしゃ)がつくられていましたが、とてもふしぎなちゅうもんをうけていました。
「この機関車(きかんしゃ)には日本語(にほんご)のもじがはいります。」
ニューヨーク領事(りょうじ)の高木三郎(たかぎさぶろう)という人がていあんしたといわれていますが、1号機関車には「義経(よしつね)」、2号機関車には「弁慶(べんけい)」、というふうに、ひとつひとつになまえがついたのです。
日本(にほん)についてから黒田清隆(くろだきよたか)北海道開拓使(ほっかいどうかいたくし)長官(ちょうかん)がかくことになっていたのですが、とてもはやいじきに「義経」「弁慶」のなまえだけはきまっていたのです。
この機関車はアメリカのだいそうげんをはしるそのままのかたちで、まえに牛(うし)よけのさくがつけられて、おおきな鐘(かね)がついていました。
日本にむけたせんようの機関車としてせっけいをしなおすと、たくさんおかねがかかるために、そのままのものをかうことにした、といわれていますが、ポーター社の人たちはそんな炭鉱でつかう機関車になまえをつけるなんて、とふしぎにおもいました。
10月17日、その「義経」「弁慶」などの車両(しゃりょう)やレールなどのにもつをのせた貨物船(かもつせん)トベイ号が小樽(おたる)につきました。
おろされたにもつはすぐに、港(みなと)にちかい手宮(てみや)工場(こうじょう)にはこばれて、10月24日には「義経」「弁慶」に黒田清隆がもじをかきいれて、運転(うんてん)がはじまりました。
それは人をのせるのではなく、にもつをこうじげんばにはこぶ、というものでしたが、北海道の鉄道はこの日からはじまったといえます。
11月28日、幌内鉄道は手宮駅(てみやえき)と札幌駅(さっぽろえき)のあいだでかいぎょうし、さいしょの列車(れっしゃ)は「義経」がひいてはしりました。
つぎのとしの11月13日には、のこっていた札幌駅(さっぽろえき)と幌内駅(ほろないえき)のあいだがかいつうし、機関車もつきつぎにふやされてゆき、さいしょは一日(いちにち)に一往復(いちおうふく)だけだった列車もほんすうがふえてゆきました。
北海道でも、日本海(にほんかい)にそったこのあたりは、ふゆになると、おおくのゆきがふりました。
小樽駅(おたるえき=現在の南小樽駅)から軽川駅(かるかわ=現在の手稲駅)のあいだは、たかいがけをきりくずしてつくった、ばしょでした。
なかでも張碓(はりうす)というあたりにあった張碓第3随道(はりうすだいさんずいどう)と、張碓第5随道(はりうすだいごずいどう)は、ゆきのふきだまりができやすいばしょとして、機関士(きかんし)たちがとてもきんちょうするところでした。
それでも、小樽(おたる)手宮(てみや)はとてもかっきがありました。
ここには列車が、そのまま船(ふね)に石炭(せきたん)をつみこめる棧橋(さんばし)があり、おおくの船がやってきましたし、ちかくではにしんというおさかなが、たくさんとれたので、それをはこぶための貨車(かしゃ)など、にぎわっていたのです。
それらの車両のしゅうりや、てんけんも、この手宮でおこなわれていました。
「義経」「弁慶」につづいて四年ごには「静」などもくわわり、さらににぎやかになりました。
※後の鉄道省機関車番号整理で7100型式となったこの「義経」シリーズは、7100・7101「義経」・7102「信広」(武田彦太郎源信広)・7103「比羅夫」(阿部比羅夫)・7104「光国」(水戸藩徳川家第二代徳川光国=水戸黄門)・7105「弁慶」・7106「静」・7107とあり、更に手宮工場で自作した国内二番目の蒸気機関車7150「大勝」がありました。
幌内鉄道は今日流に言えば「北海道営鉄道」で、開業からわずかで民間企業へ業務委託(北有社)して、更に民営化(北海道炭礦鉄道)とめまぐるしく変更されます。
で、開拓の推進という理由から「北海道官設鉄道」が設置され、加えて函館~小樽間は「北海道鉄道」と言う民営鉄道が工事をし・・・と言う具合で、明治後半の「鉄道国有化」までこの混乱した状況は続くのです。
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