十八、幌内(ほろない)
北海道開拓使(ほっかいどうかいたくし)が、幌内(ほろない)にあった石炭(せきたん)がとれるばしょ、鉱脈(こうみゃく)に炭鉱(たんこう)をつくることになったころ、アメリカ人の鉄道技師(てつどうぎし)、ジョセフ・クロフォードをよんできました。
クロフォードはたいへんまじめな人だったのですが、なかなかやくにんの人たちが、鉄道(てつどう)をつくるには、おおくのおかねがかかることが、わかってくれませんでした。
そして、いますぐにでもつくってくれ、といわれて、たいへんこまってしまいました。
北海道(ほっかいどう)の開拓(かいたく)には、きかいや人やにもつをはこぶための道路(どうろ)や鉄道がひつようです。
それをととのえてから、開拓(かいたく)はするものだと、クロフォードはかんがえていました。
しかし、おなじ「おやといがいこくじん」の人で、まじめにしごとをしている人はすくなく、なかなかそうだんができなかったのです。
榎本武揚(えのもとたけあき)も、まじめな人だったので、そんないばるやくにんや、がいこくじんがきらいでした。
ちょうどそのころ、北海道のいちぶだった樺太(からふと=現在のロシア・サハリン)は、ロシアの人と日本人(にほんじん)がいっしょにすんでいたばしょで、けんかや、ときには鉄砲(てっぽう)によるうちあいなどもおこっていました。
その国境(こっきょう)をはやくきめなければ、戦争(せんそう)になるかもしれない。
おおきな国のロシアをあいてに、はなしあいをまとめられる人。
黒田清隆(くろだきよたか)は、榎本(えのもと)にそれをまかせることにしたらどうだろう、と政府(せいふ)にいいますと、みんなはさんせいしました。
「官軍(かんぐん)をあいてに、まけそうになっても、まっすぐにかんがえて、まっすぐにつきすすむ。榎本さんならやってくれるだろう!」
明治7(西暦1874)年に、榎本は日本でさいしょの海軍中将(かいぐんちゅうじょう)になり、ロシアとのはなしあいのすべてをまかされました。
「榎本どん、義経(よしつね)が北海道にきて、そのあとシベリアにいったというはなしがありもんそ。」
「黒田(くろだ)さん、それはおとぎばなしですよ、ジンギスカンになったというものでしょう?」
「でも、ほんとうの義経がいまいきていたら、ロシアと戦(いくさ)をしもんそか(するでしょうか)?」
「いや、やっぱりはなしあいをするでしょうね、戦はころしあうだけでは、ないですからね。」
「北海道の開拓は、おいがちゃんとすすめます、あんしんしてください。」
「とにかく、ロシアの帝(みかど)とはなしあいをします。あってはなしをするのが、いちばんよいです。」
そうして、榎本はロシアのペテルスブルグへしゅっぱつしてゆきました。
明治五年九月十二日(西暦1872年10月14日)に、新橋駅(しんばしえき=現在の汐留駅)と横浜駅(よこはまえき=現在の根岸線桜木町駅)のあいだに鉄道(てつどう)がかんせいしていましたから、榎本はその陸蒸気(おかじょうき)にのって、しゅっぱつしてゆきました。
明治11(西暦1878)年に榎本がかえってきたときには、西南戦争(せいなんせんそう)で西郷隆盛(さいごうたかもり)も死んでいましたし、木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)もびょうきで死んでしまっていました。
このあと、榎本は海軍卿(かいぐんきょう)や文部大臣(もんぶだいじん)・農商務大臣(のうしょうむだいじん)などになり、明治政府(めいじせいふ)でも、だいかつやくをしました。
北海道では空知(そらち)の幌内(ほろない)に石炭(せきたん)をほりだす鉱山(こうざん)がつくられることになり、その石炭をつみだすために、小樽(おたる)の手宮(てみや)と幌内のあいだにも、鉄道がつくられることになりました。
クロフォードは、つくるのに時間(じかん)とおかねがすこしでもかからないように、アメリカ製のレールや機関車(きかんしゃ)などをまとめてかうことにしました。
つぎのとしには、アメリカ・ペンシルバニア州(しゅう)ピッツバーグ市(し)のポーターというかいしゃに、蒸気機関車(じょうききかんしゃ)がちゅうもんされました。
※榎本武揚は、第一次伊藤博文内閣で逓信大臣、第一次黒田清隆内閣で逓信大臣、但し森有礼が暗殺されたのでそのピンチヒッターで文部大臣、第一次山県有朋内閣では文部大臣、第一次松方正義内閣で外務大臣、第二次伊藤・第二次松方内閣では続いて農商務大臣、と歴任し、それもそれぞれにやるべき仕事があって大臣を拝命し、その段取りを作っているところから藩閥が強かった明治政府の中で安心して仕事を任せられる人物と高い評価を得ました。
海軍卿時代では士官学校と海路整備、文部大臣では帝国大学制度などを作った他に、ロシアとの国境確定(千島樺太交換条約・全権駐露公使)の実績を買われて、全権清国公使にもなって、朝鮮半島問題で戦争を回避させたりとしていますが、一方で移民計画の挫折や、北海道内での大規模農場開発の失敗、そしてジェラシーからか明治・大正の世間の評価は悪く、研究が本格化したのは近年になってからの事です。
文部大臣の頃に尽力した東京帝国大学(現在の東京大学)の設置とその敷地だった金沢藩前田家屋敷の正門(赤門)の存続に尽力した一人である事は全く語られていないとか。
また「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が教頭だった札幌農学校(現在の北海道大学、札幌時計台はその演武場なんですね)の基本構想は、東京に護送される途中で黒田清隆に語ったものとも言われています。ちなみにその子孫は東京農業大学の客員教授をされていますが、この東京農業大学も榎本が設立に奔走した大学の一つなんですね。
<御案内>
パソコン経由で閲覧の方は、ページ左のブログテーマ一覧より「文書屋笑衛門」(ふみかきやしょうえもん)を選択して頂きますと、まとめてご閲覧頂けます。