十六、海律全書(かいりつぜんしょ)
明治(めいじ)二年(西暦1869年)五月十一日。
北蝦島政府(ほくいじませいふ)陸軍奉行並(りくぐんぶぎょうなみ)内藤隼人(ないとうはやと=土方歳三(ひじかたとしぞう))が鉄砲(てっぽう)でうたれて、たおれた、そのすこしあとです。
箱館山(はこだてやま)にちかい、高竜寺(こうりゅうじ)のなかにつくられたりんじの、びょういんにとつぜん、官軍(かんぐん)の兵隊(へいたい)がやってきました。
「おまえたちは、朝敵(ちょうてき=天皇(てんのう)の敵(てき)といういみ)だな!ころしてしまえ!」
そこにいたのは、きずついた北蝦島政府の兵隊でしたが、もちろん戦(たたか)うことも、うごくこともできない人ばかりでした。
しかし、官軍はほとんどの人をころしてしまいました。
戦争(せんそう)はにんげんを、くるわせてしまうのです。
よくじつの五月十二日になると、港(みなと)には官軍の軍艦(ぐんかん)だけになり、大砲(たいほう)が、五稜郭(ごりょうかく)にもうちこまれるようになりました。
そのなかで、えいごがとてもじょうずだった古屋作左衛門(ふるやさくざえもん)が死(し)んでしまいました。
三十七才でした。
そのひのよるです。
箱館病院(はこだてびょういん)の高松荘三郎凌雲(たかまつ・そうざぶろう・りょううん)のもとに官軍のつかいがきました。
「もうこれいじょう、むだに人をころしてはいけもはん!おいは、参謀(さんぼう)黒田清隆(くろだきよたか)どんのめいれいで、この戦(いくさ)をおわらせるために、やってまいりもうした。」
「わかりました、さっそく総裁(そうさい)につたえましょう。」
高松凌雲(たかまつりょううん)は、榎本武揚(えのもとたけあき)にこのことをはなしました。
五月十四日、官軍のつかいは千代ヶ丘台場(ちよがおかだいば=現在の函館市中島町)にきました。
榎本(えのもと)と、箱館奉行並(はこだてぶぎょうなみ)の中島三郎助永胤(なかじま・さぶろうすけ・ながたね)があいました。
「榎本先生(えのもとせんせい)、これいじょうはむだに人をうしなうばかりでございもはんか?武士(ぶし)のいじはすてて、ともにあたらしい国(くに)をつくることに、きょうりょくしてもらうわけには、いきもはんか?」
薩摩(さつま=現在の鹿児島県)の人らしかった、その人に、榎本は言いました。
「黒田参謀(くろださんぼう)に、これをわたしてください。」
それはとてもあつみのある、おおきな本(ほん)でした。
「海律全書(かいりつぜんしょ)、というべきものです。海(うみ)のうえでのがいこくとのつきあいかたが、ここにかかれています。これからは新政府(しんせいふ)のあなたたちがもっておくべきものです。」
「これは・・・」
「わたしたちは、わたしたちなりのかたちで、サムライの時代(じだい)がおわったあとの国(くに)づくりをかんがえてきました。がいこくのよいものをとりいれることは、これからおおくなります。でも、ちゃんとこの国にあったものにととのえて、しくみをかんがえなければ・・・十年ごではなく、百年ごをかんがえて、国をつくってください!」
「たしかに、たしかにわたしもんそ!」
官軍の陣屋(じんや)で、黒田(くろだ)は「海律全書」をひらいてみた。
それは榎本がオランダにりゅうがくしたときに、もらったものでした。
「こまかく、かきくわえがある・・・榎本どんは、これからの日本にはぜったい、ひつような人じゃ。」
つかいの人がいいました。
「しかし、榎本どんはすでにかくごをしているようです。」
「もうじき、西郷(さいごう)どんもくるっとじゃ、それまでにおわらせれば、死(し)なせずにすむ・・・きけば、榎本どんのおくさんは、あの医師(いし)の佐藤泰然(さとうたいぜん)どんの孫(まご)じゃと・・・義経(よしつね)の家来(けらい)、佐藤継信(さとうつぐのぶ)の子孫(しそん)ちゅう、もっぱらのうわさじゃ・・・」
「このまま、海をわたり、ロシアにでもゆくっとですか?」
「おいが、弁慶(べんけい)をやるかの・・・」
五月十六日、七重浜(ななえはま)にはいった官軍の軍艦は、千代ヶ丘台場を大砲でせめたてました。
まもっていた中島三郎助永胤のまわりには、もうみたかもほとんどいませんでした。
「よし・・・恒太郎(こうたろう=中島三郎助長男)!英次郎(ふさじろう=中島三郎助次男)、ゆくぞ!」
中島三郎助永胤は四十八才、恒太郎は十九才、英次郎は十七才。
浦賀奉行所(うらがぶぎょうしょ)でマシュウ・ガルブレイス・ペリーたち、アメリカの黒船(くろふね)とのまどぐちをしたいっぽうで、江戸(えど)ではいくの先生(せんせい)をしていた、たさいな人でした。
のちに海軍(かいぐん)にはいり、大砲のせんもんかとなったのでした。
この中島父子(なかじまおやこ)の死をいたみ、その戦死(せんし)したいったいだけは中島町(なかじまちょう)となづけられました。
そのよる、榎本は少年兵(しょうねんへい)をあつめました。
中島父子のことをかなしんだ北蝦島政府の幹部(かんぶ)たちでそうだんして、少年兵を箱館からにげさせるためでした。
「いやです!総裁といっしよに戦います!」
「これは戦いなのだよ、この戦がおわり、国をつくるうえで、まよったり、まちがえたりしたときに、きみたちがここまでけいけんしたことが、しょうらいの日本にきっとやくにたつ。ここで死ぬことばかりが、やくめではないのだ。」
みんな、ないていました。
そのよふけ、少年兵はにもつをはこぶ船(ふね)で箱館からだっしゅつしたのでした。
そのすがたをみて、なんにんかが、榎本のかくごにきづきました。
副総裁(ふくそうさい)の松平太郎正親(まつだいらたろう・まさちか)がたずねました。
「釜次郎(かまじろう=榎本武揚)さん、ひとりで死ぬのは、ずるいですよ。」
「太郎(たろう)さん、ずるい、かぇ?」
「そりゃそうですよ、まだ北蝦島政府はおわっていないんですよ、官軍がこのとちをどうするのか、ゆっくりみてやりましょうよ。」
「べらぼうめぇ!」
あけがたちかくになり、みんなではなしあいをして、はんたいという人もいましたが、こうさんすることにきめたのです。
ここに戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、おわりました。
※海律全書、はフランス人法学者のジャン・オルトランが書いた「海事外交国際法」のオランダ語翻訳したペン書きの写本で、ハーグ大学法学部の教授・フレデリックスが榎本に贈ったものです。
現在も宮内庁書陵部に保管されていますが、榎本が解説などを書き加えておりまして、外交が殆ど未経験だった新政府には不可欠だったのか、非常に状態が良く保存されているそうです。
中島三郎助永胤の辞世は「ほととぎす、われも血を吐く、おもいかな」(異説あり)。
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