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十五、誠(まこと)の旗(はた)


 としがあけて、春(はる)四月九日になると、官軍山田市之丞顕義(やまだいちのじょう・あきよし)と黒田了介清隆(くろだりょうすけきよたか)を参謀(さんぼう)として北蝦島政府(ほくいじませいふ)、つまり徳川方(とくがわがた)をせめるためにやってきました。


 総裁(そうさい)の榎本武揚(えのもとたけあき)は、いままでいっしょに戦(たたか)ってきたフランス陸軍(りくぐん)の人たちを東京(とうきょう)へかえすことにしました。


 そのだいひょうだった、ジュール・ブリュネは、榎本(えのもと)にいいました。


「わたしたちをかえすのは、がいこくじんだからですか?」


「そうですが、あなたたちはここで死(し)ぬべきではないとおもいます。」


総裁、それはあなたもおなじ、ほかの人もおなじです。いのちをかけてまもろうとした忠義(ちゅうぎ)は、せかいでもたいせつにされるこころです。」


ブリュネ大尉(たいい)、われわれは、まもろうとしているだけではないのです、あたらしい国(くに)を、わたしたちなりの、かたちで、つくろうとしているのです、ただ徳川(とくがわ)の時代(じだい)がすきだとか、そんなことではないのです。」


 ほとんど通訳(つうやく)をとおさないで榎本フランス語(ご)ではなしました。


榎本さん、わたしはあなたがなにをしたいのかはわかりません、でもパリでまたあいましょう。」


 ふたりはかたくあくしゅをしました。


 ナポレオン三世(さんせい)が徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に、さいしんしきの鉄砲(てっぽう)や(うま)などをおくり、どうじに陸軍(りくぐん)のしどうをするためにジュール・ブリュネたちはやってきました。


 明治(めいじ)の陸軍フランス式(しき)となったのは、このかかわりがおおきいようです。


 これをみていた 内藤隼人(ないとうはやと=土方歳三(ひじかたとしぞう))は、新選組(しんせんぐみ)からのぶかだった、市村鉄之介(いちむらてつのすけ)をよびました。


鉄之介、とてもたいせつなめいれいだ・・・このにもつを多摩(たま=現在の東京都西部)のわたしのいえにとどけてほしい・・・」


「しかし・・・内藤先生(ないとうせんせい)、わたしも戦いたいです!」


「この国の戦いはこれからだ、その戦いにおまえのけいけんが、かならずやくにたつ。おいてきたら、すぐにもどってこい!」


 市村鉄之介はないていましたが、内藤隼人のやさしいえがおに、はい!とこたえました。


 五月十一日。


 箱館山(はこだてやま)のうらがわから、がけをのぼって黒田了介(くろだりょうすけ)のひきいる官軍がせめてきました。


 (うみ)では、すでに軍艦(ぐんかん)でのこっているのは「蟠竜(ばんりょう)」と「回天(かいてん)」だけでした。


「このままでは弁天台場(べんてんだいば=現在のはこだてドック」のなかまたちがこりつしてしまう!」


 弁天台場には、京都(きょうと)にいたころからしっている、永井玄蕃頭尚志(ながいげんばのかみ・なおゆき)が、新選組などのみかたをひきいて、戦っていたのです。


 内藤隼人は兵をひきいて、にのって五稜郭(ごりょうかく)からおうえんにゆくことにしました。


 榎本は言いました。


土方(ひじかた)さん、むりなことはさけるんだ。ここで死(し)んではなにもならない。」


わかっています、たいせつななかまを、たすけにゆくだけです。」


 そういうと、フランス海軍(かいぐん)のコートをひるがえして、やさしくわらって内藤隼人はでてゆきました。


 馬にのると、


「これより、弁天台場おうえんにゆく!この土方歳三義豊(ひじかたとしぞう・よしとよ)につづけ!」


 それは新選組副長(ふくちょう)として京都(きょうと)で浪士(ろうし)たちをあいてに、戦っていた土方歳三のすがた、そのものでした。


 そのこえをきいて、みかたたちはいっせいにゆうきがわいてきました。


 内藤隼人しきをする部隊(ぶたい)は、死(し)ぬ人がすくない。


 それは、内藤隼人・・・いや、土方歳三が、そのちけいや武器(ぶき)、敵(てき)をちゃんとわかって、みかたをたいせつにして戦うことのできる、この時代にはすくないサムライだったことのあかしでした。


 内藤隊(ないとうたい)が、箱館のまちのまんなかになる異国橋にさしかかったとき、じょうりくをおえてじゅんびができていた官軍鉄砲隊(てっぽうたい)が鉄砲をうちこんできました。


「身(み)をかくせ!をひきつけてから、ちかづいてきりこむんだ!」


 のうえにいた内藤にいくつもの弾丸(たま)があたりました。


 そして、どっかりと、じめんにたおれました。


土方先生(ひじかたせんせい)!」


 すぐにいくにんものみかたが、かけよりました。


(はた)をだせ!(まこと)の旗だ・・・」


 土方歳三義豊は三十五才でした。


総裁内藤様(ないとうさま)討死(うちじに)!」


 榎本はそうきいて、りょうてをぐっとにぎりしめました。


「おしい!おしい人材(じんざい)を・・・」


 とたいへん、くやしそうにしました。


フランス軍事顧問団が持参したのは大砲シャスポー式狙撃銃300挺・アラブ26頭などで、シャスポー銃下総流山に転戦した徳川陸軍別隊(大久保大和守剛=近藤勇指揮・新選組など)に持ち込んで練習し、最終的には箱館でも使われましたし、アラブ馬下総小金牧実習飼育されています。顧問団にも戦死者が出ましたが、各々が軍を脱走していたことから国際問題にはなりませんでしたが、一説には当時の公使の政治的工作だったとの見方もございます。
 土方歳三の死亡については一本木関門と言う説と、もう少し箱館山に近い異国橋付近の説がありますが、地元の古老の回想か何かで当時の一本木は既に火災が起こっていて、五稜郭から弁天台場までのルートしては若干遠回りになる事から異国橋ではないか、としていた事を採りました。
 土方の死亡自体も、その異体も確認されていませんから、函館では「土方生存説」が随分長く残っていた(それも何故か椴法華村七飯町で多いと・・・)そうです。
 この中で、ベルサイユ宮殿馬術師だったカズヌーブ伍長はその後も帰国せずにアラブ馬の飼育指導を続け、日本で亡くなっていますが、存命した顧問団は帰国し、陸軍砲兵大尉ジュール・ブリュネはその後復帰し陸軍少将で退官しました。
 榎本全権駐露公使として欧州へ渡った頃には陸軍省に勤務、再会する機会がありますが、公式の記録には何も残っていません。


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