十四、五稜郭(ごりょうかく)
明治(めいじ)元年(西暦1868年)十月二十一日、蝦夷(えぞ)渡島(おしま)の鷲ノ木(わしのき)にじょうりくした徳川方(とくがわがた)三千人(四千人とも言われる)は、箱館(はこだて=現在の函館市)にむかいました。
十月二十五日に徳川方の兵隊(へいたい)が、箱館奉行所(はこだてぶぎょうしょ)のあった五稜郭についたときには、けがをした兵隊をのこして、ほとんどがにげだしてしまったあとでした。
前将軍(ぜんしょうぐん)・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)のじつのおとうとで、水戸藩(みとはん)藩主(はんしゅ)・徳川昭武(とくがわあきたけ)とともにフランスからかえってきたばかりの医師(いし)・高松凌雲(たかまつりょううん)がうったえて、敵(てき)や味方(みかた)のさべつなく、ちりょうをするものとしました。
これは日本(にほん)さいしょの赤十字(せきじゅうじ)かつどうになります。
蝦夷のおおくは松前藩(まつまえはん)の領地(りょうち)で、榎本和泉守(えのもといずみのかみ)たちは、松前藩軍(まつまえはんぐん)とも戦いながら、蝦夷のぜんたいをおさえるものとしました。
十一月十一日。
内藤隼人(ないとうはやと=土方歳三(ひじかたとしぞう))たちが江差(えさし)をせめるのを、海(うみ)からもおうえんするために、戦艦(せんかん)「開陽(かいよう)」をむかわせたのですが・・・
夜(よる)になり、きゅうに風(かぜ)がつよくなってきたなかで、「開陽」は波(なみ)にながされて、座哨(ざしょう)してしまいます。
はげしい風と波で船体(せんたい)はおおきくこわされ、十三日になって「開陽」はちんぼつしてしまいました。
榎本(えのもと)は、オランダにりゅうがくし、じぶんたちがせっけいし、こうさくにもくわわった「開陽」をじぶんたちのお城(しろ)とおもっていましたから、「開陽」のちんぼつにたいへん、おどろいて、そしてかなしみました。
「それでも、ほとんどが船(ふね)からおりていたから、死(し)んだり、けがをしたりするものがすくなくて、よかった。」
かなしんでばかりはいられません。
榎本たちは、蝦夷でじぶんたちがいきてゆくための、しくみをつくることにしました。
かいがいでは、あたりまえの政府(せいふ)をつくることにしたのです。
しかし、それはひろいいみがありました。
国(くに)をまとめるのも「政府」ですが、町(まち)や村(むら)をまとめるのも、がいこくでは「政府」といったのです。
そこで榎本たちは、北蝦島政府(ほくいじませいふ)となまえをきめて、つづいてせんきょでかかりをきめることにしたのです。
これは入札(にゅうさつ)といいましたが、だいひょうはだれでもなれる、アメリカやイギリスなどのしくみをためしたものでした。
そこで榎本武揚(えのもとたけあき)は総裁(そうさい)にえらばれました。
榎本はさっそく、箱館にいたがいこくの人たちにそれをしらせて、新政府(しんせいふ)とのこうしょうをしようとしました。
のちに、イギリス公使(こうし)のハリー・パークスともに、日本(にほん)にきていて、書記官(しょきかん)だった、フランシス・アダムスは、じぶんのかいた本(ほん)で、この北蝦島政府を「蝦夷共和国(えぞきょうわこく)」とかきましたが、ほんとうはいまの北海道(ほっかいどう)のやくば、ていどのいみしかなかったのでした。
そして、榎本はオランダにいっしょにいってべんきょうした、沢太郎左衛門(さわたろうざえもん)を開拓奉行(かいたくぶぎょう)として、室蘭(むろらん)や余市(よいち)などにちょうさへゆかせました。
さんぎょうをおこして、ゆたかに人びとがくらせるようにしたい、榎本はそうおもっていました。
※高松凌雲は一橋家の主治医で、その実兄が直参旗本・古屋作左衛門でして、ローマ字の考案者・ヘボンに師事して英語をマスターし、歩兵操典を翻訳した人物です。
神奈川奉行所勤務の頃、けしからん米英人相手に得意の英語でまくしたてて、さらに武芸百般の心得もある事からこらしめた、と言う武勇伝が多く伝えられています。
後に衝鋒隊を組織して信州中野の鎮撫に向かいますが、間もなく北陸・東北を転戦して榎本軍に合流しました。
英語で日記をつけていただけでなく、外国公使達との交渉もこなした、文武両道の智将だったのです。
また、アダムスが明治七(1874)年にロンドンで出版した「日本史」に蝦夷共和国と記載しましたが、これは翻訳のしかたによっては「蝦夷自治区政府」、または「蝦夷自治州政府」と呼ぶべき形態であります。
ですから、北蝦島政府総裁=北海道知事くらいの位置でしか無かったのですが、挙国一致政府を目指す新政府がこれを容認できる訳がなかったのです。
土方歳三の内藤隼人についてですが、実際には流山での近藤(大久保大和)任意同行騒ぎ、から宇都宮城攻めの際には殆ど「土方」と名前を戻している様にも見えます。
ですが、この辺が明確で無い事から、ここでは「内藤」と名乗って通していた、と仮定しています。
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