十三、鷲ノ木(わしのき)
慶応(けいおう)四年(西暦1868年)八月二十一日早朝、榎本和泉守武揚(えのもといずみのかみ・たけあき)徳川家海軍(とくがわけかいぐん)副総裁(ふくそうさい)がひきいる、戦艦(せんかん)「開陽(かいよう)」・巡洋艦(じゅんようかん)「蟠竜(ばんりょう)」と駆逐艦(くちくかん)「咸臨(かんりん)」などの八隻(せき)は、相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)浦賀(うらが)をしゅっぱつし、陸奥国(むつのくに)仙台(せんだい)へむかいました。
この七月十七日には、江戸(えど)は、東京(とうきょう)とあらためられ、徳川家家臣(とくがわけ・かしん)の勝安房守義邦(かつあわのかみ・よしくに)と、大久保忠寛(おおくぼただひろ=一翁)に東京のことをまかせて、官軍(かんぐん)は東北(とうほく)へむかってゆきました。
「薩長(さっちょう=薩摩<鹿児島藩>と長州<萩藩=現在の山口県>)は、会津(あいづ=現在の福島県西部)をやっつけにゆくのだ!」
徳川方(とくがわがた)の人たちは、そうおもいました。
京都(きょうと)で戦(いくさ)があったとき(禁門の変=元治元年(西暦1864年)七月十九日)は、会津、つまり若松藩(わかまつはん)と薩摩、つまり鹿児島藩はいっしょに長州、つまり萩藩・毛利家(もうりけ)の兵隊(へいたい)をおいはらいました。
そのときのうらみが、萩藩の人たちはふかくありました。
でも、それいじょうに徳川家(とくがわけ)にふかい、ふかいうらみをもっていたのが、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の彦根藩(ひこねはん)・井伊家(いいけ)の人たちでした。
徳川家の将軍(しょうぐん)のあとつぎをきめることで、紀州(きしゅう=紀伊国・現在の和歌山県)の和歌山藩(わかやまはん)・徳川家(とくがわけ)の人と、常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県)の水戸藩(みとはん)・徳川家の人のどちらにするのかで、おおくの大名家(だいみょうけ)、つまり「藩」(はん)がたいりつしました。
そのときに彦根藩の藩主(はんしゅ=大名)だった井伊鉄之介掃部頭直弼(いいてつのすけ・かもんのかみ・なおすけ)がすいせんしていた徳川家茂(とくがわいえもち)が将軍になりました。
しかし、その井伊掃部頭(いいかもんのかみ)が安政(あんせい)七年(西暦1860年)三月三日、桜田門(さくらだもん)のちかくでころされてしまいました。
<桜田門外の変>
それは、たいりつした水戸派(みとは)や、がいこくがきらいな人たちをおおくつかまえて、ころしてしまった井伊掃部頭にたいするうらみだったのです。
そのあと、水戸派の人たちは幕府(ばくふ)のちゅうしんにもどりましたが、いじめられた、とおもっていた水戸派の人たちによって、徳川家茂が将軍のころにも彦根藩の人たちは、とてもつらいおもいをしました。
官軍(かんぐん)や薩長といっても、その軍勢(ぐんぜい)は、名古屋藩(なごやはん)・徳川家や福井藩(ふくいはん)・松平家(まつだいらけ)など、もともとは徳川家康(とくがわいえやす)の子孫(しそん)やしんせきにあたる人が藩主の藩がほとんどだったのです。
そのややこしさから、かんたんにこの戦争(せんそう)はおわれなかったのです。
榎本(えのもと)たちの軍艦(ぐんかん)は、とちゅうであらしにあってしまいました。
その八隻のうち、勝安房守が艦長(かんちょう)をしたこともある「咸臨(かんりん)」はながされてしまって、駿河国(するがのくに=現在の静岡県)にながれついて、官軍はのっていた人をころしてしまったり、ひどいことをしました。
また「美賀保(みかほ)」もうしなってしまい、のこりの六隻(せき)で、北(きた)へむかいました。
ほかの軍艦もいたんだため、いちど仙台(せんだい)にちかい松島(まつしま)にはいり、ここでしゅうりをすることになりました。
「榎本さんの艦隊(かんたい)が、松島にきている!」
ときいた徳川方の人たちは、軍艦にのせてもらうために松島にあつまってきました。
このとき、徳川家海軍が仙台藩(せんだいはん)にかしていたり、とちゅうでせんりょうしたりした三隻をくわえて、九隻(せき)で、ふたたびしゅっこうしたのは、十月十三日のことでした。
すでに明治(めいじ)にかわっていました。
戦争はすでにおわりそうだと、おおくの人はおもっていました。
このすこしまえの九月二十二日には、会津藩(あいづはん)がこうふくし、会津新選組(あいづしんせんぐみ)隊長(たいちょう)だった山口二郎(やまぐちじろう=斉藤一)はゆくえふめいになっていました。
この艦隊には、徳川家海軍の人たちに、内藤隼人(ないとうはやと=土方歳三(ひじかたとしぞう))や、桑名藩(くわなはん)の藩主・松平越中守定敬(まつだいらえっちゅうりかみ・さだあき)や、唐津藩(唐津藩)の藩主・小笠原壱岐守長行などの大名や、伊庭八郎秀穎(いばはちろうひでより)などの剣豪(けんごう)ものっていました。
榎本は、びょうきでつれていかれなかった、徳川家御典医(とくがわけごてんい)の松本良順(まつもとりょうじゅん)がきがかりでした。
「釜(かま)さん(=榎本和泉守)、これから蝦夷(えぞ)はつらすぎて、おれはいけないが、とにかくしっかりと戦(たたか)ってくれ!」
松本良順は、榎本のおくさんのタツのおじさんで、佐倉順天堂(さくらじゅんてんどう)というびょういんをつくった、医師(いし)の佐藤泰然(さとうたいぜん)のほんとうのこども(次男)でした。
「くれぐれも、おだいじに!」
「開陽」には、すうにんのフランス人ものっていました。
また、大名なのに藩主をやめて、戦にくわわっていた二十歳の上総国(かずさのくに=現在の千葉県中部)請西藩(じょうさいはん=現在の木更津市)藩主・林昌之助忠崇(はやし・しょうのすけ・ただひろ)も、すっかりなかまとなっていました。
徳川家陸軍奉行(とくがわけりくぐんぶぎょう)の大鳥圭介純彰(おおとりけいすけ・すみあき)が、地図(ちず)をもってきて、
「榎本さん、箱館(はこだて=現在の函館市)のうらがわになる、鷲ノ木にじょうりくしよう!」
といいました。
もうゆくところがなくなってしまった人たちでした。
その人たちが、いきてゆこうとしてめざしたのが、蝦夷だったのです。
※この他、佐藤泰然の六男・林薫三郎(後に外務大臣・伯爵)や、甥の山内六三郎(後の鹿児島県知事・国営八幡製鉄所初代所長)が同行していますし、新選組とも深い関わりのある松本良順(泰然次男)は、後に初代の陸軍軍医総監となります。
官軍の会津攻撃は東北戦争最大の激戦となりましたが、その戦死者よりも、官軍兵士による一般市民への虐殺や暴行、女性に対する乱暴はかなり酷いものだったと伝えられています。
これが今日も続く「会津の長州嫌い」の原因なのですが、薩摩兵たちは、禁門の変で共に戦った会津を気の毒と思う者が多かった様で、西郷頼母近悳(若松藩家老)の一族21名の集団自決に際しては、薩摩兵の一人が検索中に集団自決を目撃し、まだ息のあった女性に
「お味方ですか?お味方ならば是非とも介錯を」
と頼まれ、号泣して介錯した、と本人談が残り、また戦意を鼓舞する為に凧を上げている様や、娘子隊の活躍を見た薩摩隊の大山弥助(後の巌)は、
「嫁にするなら会津の女!」
と豪語し、確かに後々に会津出身の捨松と婚姻し、鹿鳴館時代に華を添えます。
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