十二、江戸(えど)とのわかれ
上野(うえの)で、徳川方(とくがわかた)の彰義隊(しょうぎたい)にこうげきをして、勝(か)った官軍(かんぐん)は、つぎに会津(あいづ=現在の福島県西部)をせめるために、じゅんびをしていました。
御府内(ごふない=江戸、現在の東京都)は、官軍の兵隊(へいたい)のほかにも、徳川家(とくがわけ)の兵隊が、おやしきのまもりなどで、まだのこっていました。
官軍の兵隊は、いちぶの兵隊だけですが、らんぼうをしたり、おみせなどから、たべものやおさけをもっていったりして、江戸(えど)のひとたちはたいへんこまっていました。
「薩長(さっちょう=薩摩<鹿児島藩>と長州<萩藩=現在の山口県>)はひでぇことをしやがる!」
そんならんぼうな官軍に、こうさんなどできない!
仙台藩(せんだいはん)・伊達家(だてけ)や、米沢藩(よねざわはん)・上杉家(うえすぎけ)などの東北(とうほく)の大名家(だいみょうけ)は、奥羽越列藩同盟(おううえつ・れっぱんどうめい)をつくって、きょうりょくして、官軍と戦(たたか)うことにしました。
まちのひとたちとなかよしだった、徳川家のせきにんしゃ、勝安房守義邦(かつあわのかみ・よしくに=海舟)のところにも、
「勝先生(かつせんせい)、あの薩長のれんちゅうを、どうにかしてください!」
といいにきました。
「もうすぐ、官軍は東北へむかうだろう、そうなれば、そんならんぼうをするものもいなくなります。いまは、しんぼうしてください!」
と、たのむしか、ほうほうがなかったのです。
まちのひとたちが、かえってゆくと、となりのへやにいた、榎本和泉守武揚(えのもといずみのかみ・たけあき)がでてきました。
「ひどいことをした、官軍がこれからの日本(にほん)を治(おさ)めてゆく、となったら、ひとびとは官軍、つまり新政府(しんせいふ)をしんじてくれません。東北のひとたちは、とくにそのおもいがつよくなります。」
勝安房守(かつあわのかみ)は、おくのへやに榎本和泉守(えのもといずみのかみ)をよぶと、イスにすわるようにさせて、
「釜次郎(かまじろう=榎本和泉守武揚)、おくさんにはあったのかぇ?」
三十一才の榎本和泉守武揚は、そのまえのとしに、けっこんしたばかりでした。
「いえ、タツ(榎本和泉守武揚のおくさん)にはここしばらく、あっていません。」
「ふうふだってぇのに、それもちかくにいて、たまにかおもみせてやらなければ、かわいそうだ。」
榎本和泉守は、おもいきったように、
「勝先生、わたしは蝦夷(えぞ=現在の北海道)へ・・・」
勝安房守はさえぎるように、はなしをつづけました。
「タツさんは、佐藤泰然(さとうたいぜん)先生(せんせい)のおまごさんだ、佐藤泰然先生といえば、源義経(みなもとのよつしね)の家来(けらい)で、屋島(やしま=現在の香川県高松市)の合戦(かっせん)で義経(よしつね)をかばって死んだ、佐藤継信(さとうつぐのぶ)の子孫(しそん)だというじゃねぇか・・・」
「はぁ、泰然(たいぜん)先生(せんせい)もちいさいときに、そうきかされたけれど、たしかなことではない、とおっしゃっていました。」
「だからな、おいらぁてっきり、釜次郎は平泉(ひらいずみ=現在の岩手県奥州市平泉地区)に、たてこもっちまうじゃねぇかと、おもっていたんだわさ。」
勝安房守は義経になぞってはなしをしました。
このころ、義経は平泉では死なないで、蝦夷へのがれたというはなしが、ひろくしられていたのです。
「勝先生、わたしがはたち(二十歳)になるまえに、箱館奉行(はこだてぶぎょう)の堀織部正(ほりおりべのかみ)の蝦夷探索(えぞたんさく=調査)についていったことがあります、さむさはきびしいものですが、あたらしいさんぎょうをおこして、がいこくと交易(こうえき)をするにも、蝦夷(えぞ)は・・・」
またさえぎるように、勝安房守がいいました。
「いや、おいらぁ、なにもきかねぇよ。きいて、しっちまったら、とめなけりゃならねぇからな。四月十五日みてぇに、安房(あわ=現在の千葉県南部)の館山(たてやま)まででかけて、ひきもどしたり、めんどうなことは、こんごは、まっぴらごめんだ。」
勝安房守は榎本和泉守の長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)のせんぱいと、こうはいのあいだがら、でした。
さらに、ふたりとも江戸(えど)の下町(したまち)でうまれて、そだちました。
勝安房守はこのとき四十六才でしたから、十五才のさがありましたが、きょうだいのようにせっしていました。
「しかし釜次郎、このままじゃあ幕臣(ばくしん=徳川家の家来)や、薩長がきらいなれんちゅうのきもちも、おさまらねぇだろうよ。」
「そのために、ゆきます。」
「おいらが、ふたりのなこうどをしているんだからな、おくさんをおいて、とおくにいっちまうなよ。」
それは死ぬなよ、といっているように、きこえました。
「あたらしい時代(じだい)に、ひつようなのは、なんといっても、人だよ。」
ふたりは、がいこくがこの戦争にはいりこまないように、いろいろとてはいをしました。
榎本和泉守が蝦夷にゆくと、なかまたちにじゅんびをたのみだしたのは、もう夏(なつ)のころでした。
※佐藤泰然の父である佐藤次郎左衛門藤佐信隆は、元々が出羽国の農民の出身であり、藤原泰衡が滅亡する直前に鎌倉方と戦った、佐藤継信・忠信の父である、陸奥国大鳥城(飯坂城とも、現在の舘の山公園)城主・佐藤信夫庄司基治が祖と言われています。
鎌倉方に降伏し、一旦捕縛されたものの赦免され、その後もこの地を治めていますが、十四世紀に傍流の子孫が伊勢国に本領を移して、以来その周囲は帰農したと伝わります。
順天堂大学史学研究室によれば、直接的な関係は無いが、佐藤藤佐が柳生家に関係し、後に大名家や旗本家の財政再建に腕を振るい、蓄財して御家人株を買い、直参旗本となったとされる事から、元々領地経営に優れていた一族の血(あるいは秘伝的な継承)があったからでは無いか、と、福島県の研究家の幾人かは、基治の子孫説を強く支持しているのです。
また基治は「吾妻鏡」などでは斬首又は討死、とあるものの、「平泉志」では、文治五年十月に「名取郡司・熊野別当とともに」赦免されている、と書かれているのです。
早計な判読は危険ではありますが、「熊野別当」とは驚きでして、武蔵坊弁慶は「叡山西塔の住人にして、熊野別当の子」と伝わっていますから・・・・歴史は深いですね!
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