九、衣川(ころもがわ)
文治(ぶんじ)三年(西暦1187年)十月二十九日、藤原秀衡(ふじわらひでひら)がびょうきで死んでしまいますと、鎌倉(かまくら)の源頼朝(みなもとのよりとも)は、あとつぎとなった藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に、義経(よしつね)をつかまえるように、なんどもおどしをかけてきます。
そして文治五年(西暦1189年)閏四月三十日・・・
東北(とうほく)にもなつのけはいがちかづきつつありましたころ。
とつぜん、藤原泰衡は弟(おとうと)たちをころし、つづいて衣川(ころもがわ)・高館(たかだち)の義経たちをおそいました。
伊勢三郎義盛(いせさぶろう・よしもり)も、鷲尾三郎義久(わしおさぶろう・よしひさ)も、このたたかいのなかで死んでゆきました。
義経は弁慶(べんけい)に、
「もうこれでおわりだ、まわりは敵(てき)ばかり・・・わたしは妻(つま=郷御前)とこども(女の子)とともに、せっぷくしてはてたい・・・」
「殿(との)、まだ、おわりではごさいませぬ・・・」
「なに、弁慶・・・なにをいっておるのだ?」
「それがし(=わたし)、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は、殿を未来永劫(みらいえいごう)、えいえんにおまもりもうしあげます!そしてかならずや・・・静様(しずかさま)のもとへ・・・」
義経はつかれはてていましたが、弁慶のしんけんな眼(め)をみて、ほんきなのだとさとりました。
「またらいせでも、うまれかわっても、殿をおまもりもうしあげます!では・・・今世(こんぜ)にては、これにて・・・ごめん!」
というと、かくれていたちいさいお堂(どう)をとびだしてゆきました。
すぐちかくに、おっての武士(ぶし)たちがまちかまえていました。
「われこそは、伊予守義経(いよのかみよしつね)殿(どの)の家来(けらい)にて、武蔵坊弁慶なり!えいえんにわが主君(しゅくん)をおまもりするために、ここはとおさぬ!」
すうにんの武士がきりかかりましたが、弁慶の薙刀(なぎなた)はあっというまに、その武士たちをたおしました。
「弁慶ぞ!弓(ゆみ)じゃあ!」
いくつもの弓矢(ゆみや)がはなたれました。
そして弁慶につきささりました。
「なんの・・・まだまだじゃ!」
弁慶はその弓をはなった武士たちもあっというまにたおしてしまいました。
やがて、お堂からひのてがあがりました。
「もっと弓を!」
さらに弓矢がつきささりました。
「弁慶、えいえんに殿をおまもりもうす!」
いくつも弓矢がはなたれました。
弁慶は死んでいましたが・・・その眼(め)はひらき、たおれることもありませんでした。
源九郎伊予守義経(みなもとのくろう・いよのかみ・よしつね)は三十一才でこの世(よ)をさりました。
武蔵坊弁慶はいまもねんれいがわからないままです。
※義経北行伝説の最大の「文証」は、何と後の鎌倉幕府公文書でもあると言われる「吾妻鏡」でございます。
ここに義経の影武者の話題が記載されているというじゃ無いですか!
もっとも、全部なんか信じられないのですわ、北条が都合良く改竄バリバリなものですから。
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