八、勧進帳(かんじんちょう)
山伏(やまぶし)のかっこうをした義経たちは、北陸(ほくりく)を日本海(にほんかい)にそって、北(きた)へむかっていました。
とちゅう、せきしょがありました。
そのやくにんが、このものたちはとてもあやしい、とせきしょのだいひょうにほうこくしました。
「ならば、ちょくせつたしかめよう。」
と、でてゆきました。
「富樫家常じゃ、そちたちは?」
「それがし、山伏にござる。戦(いくさ)でやけおちた、南都東大寺(なんと・とうだいじ=現在の奈良県奈良市東大寺)の勧進(かんじん=寄付)をするために、出羽(でわ=現在の山形・秋田県)月山(がっさん)にむかうところにござる。」
「ならば、わしも勧進をしよう、それでは勧進の山伏がかならずもちあるく、勧進帳(かんじんちょう=寄付の主旨を書いた認定書)をみせてもらおう。」
いっしゅん、義経(よしつね)たちはドキっとしました。
山伏のかっこうはとちゅう、かくまってくれたお寺(てら)で、もらったものです。
でも、勧進帳はもちろん、よういなどしていなかったのです。
それでも弁慶(べんけい)はあわてるようすもなく、にもつからまきものをひとつ、とりだしました。
「富樫殿(とがしどの)、勧進帳は仏様(ほとけさま)のことばを、お坊(ぼう)さんにつたえるためにかかれたものですから、お坊さんでない富樫殿が、これをちょくせつによむことはできません。」
「む・・・・ならば、そこでよんでいただきたい。」
弁慶はうなづくと、そのまきがみをサっとひろげたのです。
「出羽(でわ)、陸奥(むつ)、北陸道(ほくろくどう)のまつえいにくだす!南都東大寺、大勧進!」
弁慶はろうろうとよみました。
が・・・
「もうよい!そちは武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)であろう!」
しかし、弁慶はよむのをやめません。
「・・・・この世(よ)に戦(いくさ)のなきことをねがい、仏法(ぶっぽう)のはながさき、ひとびとがあんしんしてくらせる世にしたいとのおもいは、いつの世にもかわるものではなきものを・・・この勧進のみこころを、しかとごらんくだされ!」
富樫家常のまえに、弁慶がまきものをひろげてみせますと、それはまっしろなまきがみだったのです。
「・・・・いかがにござる!」
富樫家常はかんげきしていました、あんなにむずかしいことばをスラスラと、それもそのばでかんがえていっていたのでしょう。
ここまでしても、弁慶は義経をまもりたいのか!
わたしは、もう、義経の家来ではないのです、といえば、たすけてもらえるのに、そこまでして!
たしかに、義経はいちばん平家(へいけ)をたおすのにかつやくしたのに、お兄(にい)さんの源頼朝(みなもとのよりとも)からにくまれて、かわいそうではある。
でも、いのちをかけても、その義経をまもりたい、そのおもいはすごい!
「山伏殿(やまぶしどの)、勧進のおかねをいま、おもちしよう・・・はやく出羽にゆきませんと、ゆきになります。北陸(ほくりく)のふゆは、つらいでしょうから・・・」
そういって、富樫家常はおかねやおさけをくれて、義経たちをみのがしてくれました。
しばらくゆくと、とつぜん弁慶が義経のところにかけよって、
「わたくしがいたらないばかりに、殿やみなに、こんなくろうをかけてしまって・・・もうしわけない・・・」
と、じめんにどげざをしたのです。
それを義経が手(て)をとり、
「武蔵坊(むさしぼう)、わたしはこころのなかで、手をあわせていたのだよ、そのちえで、たよりないわたしを、いっしようけんめいたすけようとしている、そのすがたにかんしゃしていた、ありがたいことだ。」
「武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)、てんかいちのしあわせものにございます!」
と、おおごえでなきだしたのです。
義経たちはそのご、平泉(ひらいずみ)について、藤原秀衡(ふじわらひでひら)にふたたびあうことができました。
「よくもどった、伊予守(いよのかみ=よしつね)殿(どの)!」
と藤原秀衡はたいへんよろこびました。
※この「勧進帳」のエピソードは、「義経記」にのみ記載があるものですから、史実であることはかなり疑わしいと言われておりますが、義経主従の労苦を表す、もっとも有名なお話として織り込めたものです。
ただ、冨樫一族の盛衰はかなり激しく、その後の戦国時代や徳川の時代にも冨樫家は登場しますし、地元の伝承的なものも時系列的に矛盾を生じないエピソードが数々残っているために、完全に否定もされていない、と言う現実もございます。ちなみにこのシーンは歌舞伎の勧進帳がベースでございます。
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