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七、吉野(よしの)のわかれ


 それでも主な家来とはいっしょになることができた義経たちは、いちどは吉野(よしの=現在の奈良県)や比叡山延暦寺(こえいざんえんりゃくじ)にかくれますが、頼朝のめいれいをうけて、義経たちをおいかけてくる鎌倉方(かまくらがた)の武士(ぶし)たちはしつこくせまりました。


 文治(ぶんじ)元年(西暦1185年)十一月十六日のよる。


 吉野(よしの=現在の奈良県)のやまのなかで、ゆきがふることをまっていた義経たちでしたが、ゆきもたいへんにふかくつもり、そろそろべつの土地(とち)へうつろうとそうだんしていました。


 そのなかに、静御前(しずかごぜん)もいたのです。


 しかし、静御前のおなかには、義経あかちゃんがいました。


殿(との)、わたくしはあかちゃんおなかにいます。これいじょうみなさんといっしょにいたのでは、あしでまといになりましょう・・・ここでおわかれでございます・・・」


静様(しずかさま)!」


 みんなはないていました。


 義経静御前にいいました。


「いっしょにゆこう、おまえだけをおいてゆけない。」


「いいえ、わたくしはいつかかならず、殿おむかえにきてくれるのをずっと、ずっとまっております。伊予守義経(いよのかみよしつね=義経)の側室(そくしつ)として、ほこりたかく、まっております。ですからあんしんしておゆきになってください。」


 義経は大好きな静御前をおいてゆくのはとてもつらいことでしたが、おつきの女の人にたのんで、山伏のかっこうのまま山(やま)をおりました。


 静御前はよくじつ、それとはぎゃくのほうこうへあるいて、やがておってにみつかりました。


伊予守様(いよのかみさま=義経)はこのあたりではないでしょう、もうなんにちもまえにわたくしとわかれてゆきました。」


 と、おっての眼(め)をそらしたのです。


 山をおりて、ふたたび都にひそかにもどった義経たちでしたが、みんなでいっしょにいたのではみつかりやすい、と家来たちとバラバラになってをかくしていました。


 しかし、文治二年(西暦1186年)九月二十日・・・・


「殿、おってでございます!」


忠信(ただのぶ)、ここはバラバラになってにげよう!」


「いいえ・・・このさきまでのあいだにきづかれてしまいます、わたしがおとりになりますから、そのあいだににげてください。」


「いや・・・あぶない。」


「殿におつかえできたことは、四郎兵衛忠信(しろうびょうえ・ただのぶ)のしあわせにございました!」


 といいのこして、忠信はおってにきりこんでゆきました。


 それとともにやはり家来がひとり、きりこんでゆきした。


忠信!」


「殿、いまのうちです、忠信こころをむだにしてはなりません!」


 佐藤忠信(さとうただのぶ)はまだ二十六才のわかものでしたが、おってにきりころされてしまいました。


 そして義経たちは、山伏(やまぶし)のかっこうをして、ふたたび奥州平泉(おうしゅう・ひらいずみ=現在の岩手県奥州市平泉地区)の藤原秀衡(ふじわらひでひら)をたよって、(きた)へむかうこととしました。


※文治二年三月六日、捕らえた源頼朝が、鶴岡八幡宮の前で、直接尋問した時に、「しづやしづ、しづのをだまき、くり返し、昔を今になすよしもがな」と、「吉野山、峰の白雪ふみわけて、入りにし人の跡ぞ恋しき」と歌い、踊った事で頼朝激怒したエピソードが有名ですが、この「激怒」は、鎌倉幕府・・・それも頼朝以降の北条氏の時代に書かれた「一応」公式文書の「吾妻鏡」にございますが、北条の政治を引き立てるために意図的に頼朝を情けない、政子の尻に敷かれた「マスオさん」的なものとして描く部分が多くございまして、その史実性はかなり疑問です


 なかでも、が産んだ赤子が男子であるが故に、七里が浜から海へ投げ落とされた話は有名すぎて小生個人は?ですし、政子(頼朝の女房)が、激怒した頼朝に、女心を諭してゆるしてやったなんつー話なんぞ更に????。


 後に尼将軍として権勢を振るった政子をフォローしているだけと思いますが・・・


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