六、腰越(こしごえ)
義経(よしつね)は、お兄(にい)さんの頼朝(よりとも)が、平家(へいけ)にかわってくにを治(おさ)めることをもくひょうとしてがんばってきたのですが、帝(みかど)や都(みやこ)のひとたちからだいじにされ、そのうちにいろいろと鎌倉(かまくら=現在の神奈川県鎌倉市)からめいれいだけをいってくる、お兄さんがうるさいとかんじてきました。
「どうしてがんばっているのに、ほめてくれずに領地(りょうち)のぼっしゅうなんていうのだろう。」
義経はかなしくなりました。
弁慶(べんけい)がやってきました。
「殿(との)、鎌倉殿(かまくらどの=頼朝)は殿がうらぎってしまうことがこわいのです、戦(いくさ)がとてもじょうずな殿が敵(てき)にまわれば、とてもくるしいことになります・・・いや、むしろ、鎌倉殿の家来(けらい)たちが殿をおもしろくおもわないのです、鎌倉に行ってちょくせつ、おはなしをするのがいちばんよいです。お兄さんはわかっていても、家来たちの眼(め)に、殿がうらぎるきもちがない、とわからせることがひつようです。」
元暦(げんれき)二年(西暦1185年)五月二十四日、鎌倉のまちにははいれずに腰越(こしごえ=現在の神奈川県鎌倉市)・満福寺(まんぷくじ)で、うらぎるきもちなどないとてがみにかき、頼朝の家来(大江広元)にわたした(「腰越状」)ものの、六月九日になって、
「あえないから、都にもどりなさい」
とつめたくつたえらてきました。
それはとてもショックでした。
義経は都にかえってから、びょうきになってねこんでしまいました。
それでも頼朝の家来たちは義経がおもしろくない、というよりはこわかったのです。
そこで六十人ばかりで義経の館(やかた)をおそわせたりしてしまうのです。
<堀川夜討・文治元年十月十七日>
義経もついに、お兄さんとけつべつするけっしんをしました。
文治(ぶんじ)元年(西暦1185年)十一月三日、御所(ごしょ=帝の館)にゆき、
「兄がわたしをうちほろぼすというので、わたしは西(にし)ににげます。いままでありがとうございました。」
といいのこして、家来たちや家族(かぞく)をつれて、船(ふね)で九州(きゅうしゅう)へむかおうとしました。
壇の浦(だんのうら=現在の関門海峡)での平家との戦(たたか)いのあと、平家にみかたした水軍(すいぐん)たちに、義経はそれほどのばつはあたえなかったのです。
それでかんげきした水軍たちは、義経にみかたするつもりでいたのです。
しかし、しゅっぱつしてすぐに、あらしにあってしまい、家来たちはバラバラになってしまいました。
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