五、壇の浦(だんのうら)
屋島(やしま=現在の香川県高松市)での戦(いくさ)に勝(か)った源氏軍(げんじぐん)は、そのいっかげつごの元暦(げんれき)二年(西暦1185年)三月二十四日、長門国(ながとのくに=現在の山口県西部)壇ノ浦(だんのうら)というところで、で九州の平家軍(へいけぐん)と決戦(けっせん)のときをむかえていました。
平家(へいけ)は船(ふね)にのって、源氏軍(げんじぐん)をせめたてていました。
そのなかに、平家がわの天皇(てんのう)であるまだおさない、安徳帝(あんとくてい)がいました。
義経(よしつね)たちは、この海(うみ)にくわしいひとたちから、しおのながれやくせをきいて、さくせんをたてていました。
平家軍は、つぎつぎと源氏軍の船をしずめてゆきます。
そして、海のしおのながれがかわったころ、船がおおくあつまってたたかっているばしょをみつけた義経たちは、そこにちかづいてつぎつぎと平家(へいけ)の兵(へい)をうちとってゆきました。
それをみていた平家のひとたちは、まだおさない、わずか八才の安徳帝をだいて、
「帝(みかど)、なみのしたにも、都がございます、さあ・・・まいりましょう・・・」
と、海にとびこんでゆきました。
そのときに、京(きょう)の都からもちだされた三つの宝物(たからもの=三種の神器)も海になげだされてしまいました。
そして、平家はほろんだのです。
都にもどった義経たちは、とてもかんげいされました。
帝もそれをよろこんで、義経に役職(やくしょく)をあたえたのです。
義経がいちばんうれしかったのは、おかあさんの常磐御前(ときわごぜん)とあえたことでした。
おかあさんも、たいへんよろこんでくれました。
しかし、そのことをきいたお兄(にい)さんで、源氏(げんじ)の頭領(とうりょう=だいひょう)だった、源頼朝(みなもとりよりとも)は、とてもこまったことになったとおもったのです。
この源平(げんぺい)の戦(いくさ)で、平家と源氏のたたかい、というものの、源頼朝のまわりにいて、家来(けらい)としてささえていたのは関東(かんとう)のさむらいたちで、それもおおくは「平家」だったのです。
弟(おとうと)である義経のひょうばんが、たかくなると、じぶんのまわりの家来たちはとてもおもしろくないのです。
とくに源頼朝のおくさんのおとうさんである北条時政(ほうじょうときまさ)は、なにかと源頼朝の弟たちをよくいわないのです。
そこに役職(やくしょく)をもらったしらせがきたのです。
ほんとうは、主君(しゅくん)である頼朝(よりとも)がきょかをしなければ、役職はもらえないのです。
帝からのごほうびだとしても、それはまもらせなければならないのです。
そして、平家の頭領である平宗盛(たいらのむねもり)をころさないでいたことも、家来たちからはんかんをかったのです。
頼朝は義経を家来からはずして、その領地(りょうち)をぼっしゅうすることにしました。
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