四、一之谷合戦(いちのたにかっせん)
いちどは源義仲(みなもとのよしなか)の軍(ぐん)に、すべてもやされてしまった福原(ふくはら=現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区にかけての一帯)に、平家(へいけ)がわは、ふたたびとりでをつくって、源氏軍(げんじぐん)をむかえうつじゅんびをしていました。
寿永(じゅえい)三年(西暦1183年)二月七日のあさはやく、源氏軍のおおくは源範頼(みなもとののりより)がひきいて、福原の東(ひがし)から平家軍(へいけぐん)にせまりましたが、義経(よしつね)や弁慶(べんけい)、佐藤継信(さとうつぐのぶ)、佐藤忠信(さとうただのぶ)、家来(けらい)になっていた伊勢三郎平義盛(いせさぶろう・たいらのよしもり)や、鷲尾三郎義久(わしおさぶろうよしひさ)など七十人だけ馬(うま)にのって福原の西(にし)の山(やま)をおりてゆきました。
このあいだにも義経は平家軍をうちたおし、福原へとせまりました。
はさみうちになった平家軍はおどろいて、ほとんどたたかいをしないままに、和田岬(わだみさき=現在の神戸市兵庫区)から船(ふね)でにげだしてしまいました。
都では義経のはたらきがひょうばんになりました。
「いくさじょうずな大将(たいしょう)」
とよばれ、はだのいろもしろく、やせてせもひくかったのですが、とても美男子(びなんし)だったことから、都の女の人たちにもにんきがありました。
帝は義経をよんで、
「これからの戦(たたか)いにはゆかないで、都をまもってほしい。」
とたのまれました。
しかし、源範頼は戦争(せんそう)についてあまりべんきょうしたことがなく、源頼朝(みなもとのよりとも)は家来(けらい)の梶原景時(かじわらかげとき)をむかわせたりしたのですが、もともと水軍(すいぐん=海軍・海賊に近い集団もあった。)がおおく、おうえんしていた平家(へいけ)は、船(ふね)をつかった戦(いくさ)がじょうずで、瀬戸内海(せとないかい)の水軍におうえんしてくれる軍(ぐん)がすくなかった関東(かんとう)の源氏軍(げんじぐん)は、なかなかすすめなかったのです。
元暦(げんれき)二年(西暦1184年)になると、ついに頼朝(よりとも)は義経(よしつね)に、四国(しこく)の平家(へいけ)をおいはらえ!とめいれいしました。
ひとつきのあいだ、義経たちは水軍たちをなかまにして、よういをととのえました。
そして、二月十九日のあけがたまえです。
うみはあれていましたが、義経たちはすくない兵(へい)でうみをわたり、讃岐国(さぬきのくに=現在の香川県)屋島(やしま=現在の高松市)にじょうりくし、またも平家をおどろかせました。
りくにあがっても義経はかつやくしました。
しかし、そのときに矢(や)が義経にむかってとんできました。
「あぶない!」
義経をかばって、矢にあたったのは佐藤継信(さとうつぐのぶ)でした。
「継信(つぐのぶ)!しっかりしろ!」
矢はふかくむねにささっていました。
「殿(との)、さむらいは戦(いくさ)で死(し)ぬことがしごとですから、なにもおもいのこすことはありませんが、ただ殿(との=義経)がもっとえらくなるのがみられないのはつらいことです。しかし、佐藤三郎兵衛継信(さとう・さぶろうびょうえ・つぐのぶ)というものが、殿をかばって死んだとながくいわれれば、とてもうれしいことです。」
といい、そのまま死んでしまいました。
義経はよろいのそでにかおをおしあてて、なきました。
そして戦(いくさ)がおわってすぐに、ちかくのおぼうさんをよんで、佐藤継信をとむらいました。
そのときに、義経はこのおぼうさんにそれまでのっていた名馬(めいば)「太夫黒」(たゆうくろ)をあげました。
さむらいにとって馬(うま)はとてもたいせつなものです。
それをあげたくらい、義経が佐藤継信をたいせつにしていたとしり、義経の家来(けらい)たちは、もっと義経をしんじるきもちがつよくなりました。
※「平家物語」で有名な、那須与一宗隆の小舟の扇を弓で射る、とか、平敦盛を熊谷次郎平直実が討取ったエピソードは、この一の谷合戦での出来事とされております。
「幸若舞・敦盛」では、この合戦で戦死したばかりの嫡男・小次郎平直家と同じ年令の敦盛を、直実が一度は組み伏せたが逃がそうとするものの、討取らない姿に「裏切者」と声があがり、遂にその首を取ったとされているのですが、実際は直家はその後も存命ですし、その後世を儚んで僧侶となったとなっているものの、こちらも実際は隠居していたりするのです。
織田三郎上総介平信長が好んだ「人間五十年下天の内を比ぶれば夢幻の如也一度生を受け滅せぬ者のあるべきか」は、まさにこの幸若舞でございます。
<御案内>
パソコン経由で閲覧の方は、ページ左のブログテーマ一覧より「文書屋笑衛門」(ふみかきやしょうえもん)を選択して頂きますと、まとめてご閲覧頂けます。