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三、駿河国(するがのくに)黄瀬川(きせがわ)


 治承(じしょう)四年(西暦1180年)十月二十一日に源義経(みなもとのよしつね)は、駿河国(するがのくに)黄瀬川(きせがわ=今の静岡県駿東郡清水町)で、おにいさんの源頼朝(みなもとのよりとも)とあうことができました。


九郎、よくきてくれた!」


兄上(あにうえ)もよくぞごぶじで!」


 ふたりのきょうだいは、かたをだきあって、あえたことをよろこびました。


 それから義経は、もうひとりのお兄さんの源範頼(みなもとののりより)とともに、源氏の大将(たいしょう)として(いくさ)の先頭(せんとう)にたち、つぎつぎと平家軍(へいけぐん)にかちつづけてゆきました。


 義経二十二才になっていました。


 このおなじころ、信濃国(しなののくに=現在の長野県)木曾(きそ)でも、木曾義仲(きそよしなか)ともいわれる、源義仲(みなもとのよしなか)がをはじめて、つぎつぎと平家軍をうちやぶって、都にすすんでいました。


 それでも、には平清盛(たいらのきよもり)が、清盛(きよもり)をしんじてたよるたくさん軍勢(ぐんぜい)をしたがえていましたから、義経・頼朝の軍(ぐん)も、義仲(よしなか)の軍も、なかなかすすめないでいたのです。


 しかし、つぎのとし(うるう)二月四日(むかしは閏月=うるうづき、というものがありました。)に平清盛が死(し)んで(64才)、平家軍からはなれて源氏軍(げんじぐん)にみかたするものたちが、すこしづつふえてきました。


 とくに義仲軍(よしなかぐん)のなかで、巴御前(ともえごぜん)という女のひとは、とても戦(いくさ)がじょうずで、いつもむずかしいやくわりをまかされて、それで勝(か)ってゆきました。


 寿永(じゅえい)二年五月二十八日、源義仲(みなもとのよしなか)は義経たちよりはやくに都にはいりました。


 このとき、平家播磨国(はりまのくに=現在の兵庫県南部)福原(ふくはら=現在の神戸市中央区など)にうつしていましたが、いちど九州(きゅうしゅう)や四国(しこく)へのがれてゆきました。


 都をおさえた源義仲でしたが、そのさむらいたちはおさけをのんだり、らんぼうしたりをして、都のひとびとや(みかど)たちもこまってしまいました。


 そのうちに平家軍福原までもどり、義経たちに源義仲をほろぼすようにたのみました。


しんせきではあるけれど、帝や都のひとびとをくるしめているのはいけない!」


 つぎのとしの一月二十日、義経(よしつね)と範頼(のりより)の軍勢(ぐんぜい)は近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)で源義仲をたおしました。


 ふたたび都にもどった義経は、(しずか)という女の人とあいました。


 とてもきれいなひとで、おどりもじょうずな義経はとても好(す)きになりました。


 そして、から平家ほろぼすようにめいれいをうけた源頼朝(みなもとのよりとも)は、義経範頼につたえて、ふたりはおおくの兵(へい)をひきいて、福原へむかったのです。


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