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二、奥州(おうしゅう)


 奥州(おうしゅう)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、いまの福島(ふくしま)・宮城(みやぎ)・岩手(いわて)・青森(あおもり)県にあたる「陸奥国(むつのくに)」と、いまの山形(やまがた)・秋田(あきた)県にあたる「出羽国(でわのくに)」を治(おさ)めていました。


 領地(りょうち)には金(きん)や銅(どう)がとれる鉱山(こうざん)があり、また十三湊(とさみなと=現在の青森県津軽地方)では(とう=現在の中国=中華人民共和国)や高麗(こうらい=現在の朝鮮半島)と船(ふね)で貿易(ぼうえき)をしてさかえ、ゆたかでへいわな土地(とち)でした。


 牛若丸はこの奥州へくるとちゅうで、おとなの男として、また武士(ぶし)となる元服(げんぷく)の儀式(ぎしき)をして、なまえも牛若丸から源九郎義経(みなもとのくろう・よしつね)とあらためて、藤原秀衡とあうことにしました。


 藤原秀衡義経(よしつね)がきたことを、たいへんよろこびました。


九郎(くろう)殿(どの)はたいせつなおきゃくさまです。どうかゆっくりしてください。それで、あなたに家来(けらい)をさしあげましょう、ここにひかえるのは飯坂城主(いいざかじょうしゅ=現在の福島県福島市)のこどもで佐藤継信(さとうつぐのぶ)と佐藤忠信(さとうただのぶ)でございます。」


 ふたりのわかい武士(ぶし)が義経にあいさつしました。


 ここで義経はいろいろなべんきょうをしました。


 戦争(せんそう)のしかたや、仏法(ぶっぽう)についてもふかくべんきょうをしました。


弁慶、わたしのなまえ義経法華経(ほけきょう=妙法蓮華経)のさいしょである無量義経(むりょうぎきょう)からなづけたのだ。」


「はい、ぞんじております。無量義経(むりょうぎきょう)は釈尊(しゃくそん)がとかれたお経(きょう)のなかで、いちばんだいじ法華経(ほけきょう)のはじまり、その(ぎ)とはほんとうの意味(いみ)ということです。」


「たくさんのふかい、ほんとうの意味がとかれたお経ということなのか?」


「そうです。殿(との)はひとびとのしあわせのために(たたかい)をしなければなりません。」


「でも、戦争(せんそう)はひととひとが、ころしあう、おそろしいことだ。」


「そうです。しかし、いまの世の中では(いくさ=戦争)をしなければ、政治(せいじ)はかわれないのです。その戦もただころしあうだけでは、しんだり、きずつくひとがたくさんでるだけです。そこで兵法(へいほう)をまなび、しぬひとがすくなくても戦争ができて、もっとよいのはころしあいをしないで(てき)がにげてゆく、そのようにしなければ、できなければならないのです。」


 義経たちは乗馬(じょうば)や(ゆみ)などのれんしゅうをたくさんしました。


 あるひ、弁慶藤原秀衡によばれました。


「なにかごようでございましょうか?」


「いま、しらせがあった。義経殿(よしつねどの)の兄上(あにうえ)である、頼朝(よりとも)殿(どの)が平家をたおす戦(いくさ)をはじめた。すぐにしたくをして、頼朝殿(よりともどの)とふたり平家をたおすのです・・・・ただ・・・弁慶。」


「はい、おやかたさま!」


「そちはいつ、なんどき義経殿をおまもりしてゆくのだぞ。」


武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)、(し)んで、この身(み)がなににうまれかわろうとも、末法万年陣未来際(まっぽうまんねんじんみらいさい=永遠の意味)まで、殿(との)をおまもりもうしあげます!」


 奥州(おうしゅう)のみじかい夏(なつ)がおわるころでした。


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