グリーン車、と言う言葉や制度がスタートしたのは昭和44年5月10日でございまして、それまでは「1・2等」と呼ばれておりました。
その前、昭和35年6月30日までは「1・2・3等」の三等級制度でございまして、国鉄・JRや多くの私鉄でも車両にカタカナ+数字が車体側面や、客室の壁(妻板と申します)に表記されてございますでしょ?あれ、その車体の特定番号と言うか、まぁ個別の名前なんですが、あれに
「モハ」
だとか、寝台客車だと
「オロネ」
なんてぇ具合になっておりますが、この「モハ」の「モ」は、電動客車・・・これが縮まりまして電車と言うんだそうですが、この電動機=モーターが付いてるもんですよ、ってな意味で「モ」、なんです。
で、次の「ハ」、これが問題。
これは「イ・ロ・ハ」の「ハ」で、「1・2・3」等級制度の名残なんですね。
可笑しいのは、1等も2等も無い、3等車だけの小さい電気鉄道なんかでも「デハ」「モハ」・・・こちらの「デ」は、そのものズバリ!電車の「デ」、判り易いもんですが、何だか「ハ」・・・3等と名乗っているのです。
ロだのハだのってぇ事は、別に1等や2等があるんだか?
いやいや、大抵はんなものは無くて、ただ国鉄がそうしていたもんで、そうした、ってな単純なお話なんです。
この矛盾に気付いた会社も、当然ございまして、そうしたところは「デ1000」だとか、「モ100」みたいに、「等級標記」は省略していたりします。
しかし、そんなところに限って1・2・3等が揃っていたりしますが(笑)
さて、直ぐにグリーン車のお話に・・・これが行けなくて・・・いゃ、回りくどくて、申し訳ございませんねぇ。
太平洋戦争後、鉄道旅客営業も大きく変わりまして、進駐軍軍人軍属やその家族なんかを中心とした外国人旅客が次第に増加して参りまして、そもそも体型の大きい方達にはそれまでの日本人体型の設計による座席はやはり厳しかった様で、苦情もまぁあったとか。
この頃の等級は以外と単純で、3等は二人掛け向かい合わせ固定座席、2等は向かい合わせで無い二人掛け座席、1等は一人掛け座席ってな具合でした。
そもそも、欧米や大陸と比較して、国鉄は軌間・・・ゲージとも言われますが・・・このレールの幅が小さい。
国際標準軌間1435mm(新幹線や阪急・京浜急行・京成等)に対して1067mm、この差は当然として乗っかる車両の寸法の差、にも現れるものでして、全体狭い訳ですから、外国人の皆様はさぞかし息苦しくも感じられたのでしょうねぇ。
まぁそんな理由ばかりでは無いのですが、昭和24年9月15日に国鉄は念願だった特急復活を、東京~大阪間第11・12列車「へいわ」(翌年1月1日から「つばめ」に改称)で果たしまして、昭和25年4月10日から「つばめ」に「特別2等座席車」・・・つまりそれまでの2等座席よりもかなりグレードアップしたものが登場と相成りました。
これが、グリーン車のルーツとなります。
←キロ80形式の車内。札幌駅停車中の「北斗」。
で・・・この三等級が二等級にまとめられた時、特別2等車が1等車となったのは良かったのですが、問題は従来の1等と2等でして、一人掛けの「床屋さんのシート」と、二人掛けシートが同額では問題・・・と言う事で、これは別料金とし、従来の2等はこの特別2等と同額にしてしまったんです。
これは乱暴!と言う事で、後には安価なものになりまして・・・これが「特急・急行用Aグリーン」「普通用Bグリーン」の発生となるのです。
さて、画像の「キロ80」、車体寸法はキハ80形式と同じですが、座席の間隔は1160mmで、壁に面した座席は955mm・・・でも壁には、ごめんなさいねテーブルとフックレストが付いています。
二人掛けワンセットの幅も1160mm、リクライニングシートにフックレスト(足掛け)が付いて、座席ごとグルルン!と回転します。
席数は48名、トイレは和式と洋式両方が備わりまして・・・ここが外国人向けで登場した「特別2等」からの伝統なんですね、但し洋式トイレは直ぐ隣に水タンクを置かれたものでちょいと狭いのですが・・・
登場当初の特別2等車には、冷房噴出し口・・・これは角度と噴出し量の調節も出来ます・・・と読書灯が付きまして、更に一時期は列車ボーイ(給仕・・・正式には車掌補)がお茶の提供をしたと言うから、まぁありがたみはありますねぇ。
この室内の雰囲気は、客車でもほぼ一緒でして、比較的明るい印象の客室にまとめられておりました。
で、特別急行を名乗るのにもう一つ不可欠なのが食堂車です。
鉄道発祥地のイギリスでは、日本で陸蒸気がポコポコ走り出した頃には蛇腹の幌を使った客車妻板通路が実現していたと言われまして、それは食堂車の実現のために発生した技術だった、と言う方もいらっしゃいます。
まぁ、小生も北海道やら東北やらを旅して、大枚叩いて特急に乗って・・・の大きな理由の一つが食堂車でしたもの。
で・・・出で来るものは大して・・・どころかお世辞にも美味とは言えないもので、価格と品質を市中のレストランに比較すると・・・いゃ、比較出来ませんねぇ・・・勝負になりませんよ・・・ってな具合です。
それでも流れる車窓の風景を眺めて食べるカレーライスやらミートソーススパゲティは、また格別でございました。
必要と言うよりはステイタス、なんですね、食堂車は。
今日では手間が掛かるだの採算がどうの、で対北海道寝台特急を除いて全滅しましたが、国鉄ではどうも「4時間」が判断基準だった様子です。
登場当時の東海道新幹線は東京~新大阪間4時間、そこで軽食堂は用意されましたが、食堂車は無かったのです。
他でも急勾配の為に両数に制限のあった区間や、短距離のものには食堂車は無かったのですが、急行でも立派な食堂車を備えたものもありましたし、戦前では明治期の成田鉄道(現・成田線)の上野~成田間や、戦争に入るまでの上野~日光間普通列車にも食堂車がありまして、観光の御客様を応接する必需品と考えられたんですね。
今は新幹線にさえ・・・んなものありません。
「速度が向上したので、食堂車は不要になったんですよ」とか、
「保安上、席を離れる事を促したくない」とか、
実際はキャパシティ上げて稼ぎたいってのが本音、でも忙しい人間が多く乗る新幹線だからこそ、移動の時間は「無駄」になるのですね。
ここで食堂なり喫茶なりがあれば・・・・そう言う声は現実として伺います。
どんな多様な御客様の需要にもお応えする、これが客務の基本姿勢なんですがねぇ。
更にそれに見合うだけの料金を余計に払っているのですし、飛行機は飲食は基本的に料金に含まれていますからねぇ。
さて、下の画像は同じ気動車80系の食堂車としました。
このキシ80形式は北海道では7両パッケージの1両として組み込まれておりまして、雰囲気は同時期に登場した電車特急の食堂車とほぼ同じです。
テーブルは幅730mm、テーブルとテーブルの間は1120mmで、1卓4人が8セットで32席でした。
これはやはり水タンクが置かれた為に電車や客車の10卓40席と比較して2卓8席分少なくなっておりましたが、基本的に収容旅客数が少ない、と判断されたのでしょうか?
まぁ技術的な課題だったのだと思うのですが・・・確かにオフシーズンは空いていました。
それでもメシドキには立って待っている程、利用実数は多かったものでした。
実は食堂車は運転時刻中は原則として始発・終点前後を除けば営業しておりまして、混雑した時期などは自由席で座席が得られない御客様の避難場所にもなっておりました。
これが食堂車を廃止した大きな理由なんで無いかい?
と勘ぐってしまいますが・・・
汽車メシは、通り掛かって喰うもんです。
事前に予約、なんてそんな立派なレストランかぇ?とちょっと文句も言いたくなる近頃の食堂車も、御客様一人当たりのテーブル面積が拡大されて4+2席の並びになったものの、中身は実は同じです。
まぁ、綺麗にしてありますが・・・
