分割民営化まで国鉄の主要駅には旅客案内所がありました。


 極めて旅客事務系の職場なんですが、運転輸送系の仕事も判りませんと、自分が苦労します。


ap2127 ←昭和60年頃、若かりし頃の小生、中央柵内にて。


 上野駅には中央口・大連絡橋・浅草口と3箇所、その中央口案内所も改札の内外2つのデスクがあって、各々に鉄道電話・インターホン・原文電報(ファクシミリの事)と統合信号所モニターがありまして、駅長室には及ばないものの、かなり情報収集が出来る仕組みになっていました。


 更に駅構内作業ダイヤなります駅ホームを脚点としたダイヤグラムがあり、これを見ると列車の動きが一目瞭然!ってな訳でした。


 遅延でもなければ忙しいと言う事は無い・・・のは浅草口大連絡橋でして、対して中央は常に忙しいもので、柵内・柵外2名づつが標準配置されていました。


 B幹線と呼ばれた東北新幹線A幹線東海道山陽新幹線です。新幹線の列車番号による区分ですが、この他に上越がCでした。東海道新幹線開業前、列車番号を付けるに当り当時の国鉄幹線調査室あたりで、デューク・エリントン楽団のテーマソングでもあった、スィングのスタンダードナンバー「A列車で行こう」から、A列車となったとかの話があります。なかなか粋ですねぇ。


 現在も東京駅から出る東海道新幹線は第何A列車、です。)が上野駅に来るまでは、大宮~上野間に「新幹線リレー号」なる奇怪な快速列車がありまして、その御案内要員に若い女性が配置されました。


 リレーガールなんて無粋な愛称を付けられて、それでも十数人は居たかしら?その彼女達の登場と共に案内所・遺失物扱所が民間企業・・・と言っても駅構内のコインロッカー管理を受託していたOB会社なんですが、そこへ一括して委託されたのです。


 メンバーはこのリレーガールと国鉄採用に成らなかった若い元準職員の男性達と、OB


 そこへ元上野駅内勤総括助役だった副所長氏に拾われて契約社員となったものです。


 ただ、契約条件が凄い。


 毎年4月1日まで雇用、後は別途・・・この後は・・・が凄まじい意味を持ったものでして、まぁ国鉄退職者の受け皿会社なものですから、4月1日には国鉄を退職した方たちが入ってくる、そうしたらお払い箱、なんですが、多かれ少なかれ、退職者達高齢であり、それまでの不規則勤務が災いして短命な方が多く、夏が終わるか冬を迎えるかの時期に、退職されたり時にはそのまま亡くなられたりする事も・・・そうなったら帰って来いよ、と言う契約なものですから、この時期に小生は就職ジプシーをしていた訳なのです。


 昭和57年12月1日から昭和61年11月30日まで、4年間の案内所&就職ジプシー生活を送るのでありました。


 この委託は昭和57年6月1日から昭和61年11月30日まで続いておりましたから、殆ど被っているものの、通算すると半分も無いんです。


 ただ、委託終了が明確となった昭和61年8月からは若い方達も再就職で殆ど居なくなっておりましたし、昭和60年3月14日の東北新幹線上野完成リレーガールも消滅(一部の方は案内所勤務で残っていましたが、夏までには全滅しています。)しましたので、若い衆ってのが小生一人だったんです


 もう時効ですよね、まぁ抱腹絶倒な上野駅人情物語をこれから少しづつ書き連ねて参ります。