小学校を卒業するまで都内は足立区西新井の直ぐ南に住んでおりまして、小学校も5・6年生になりますと既に鉄道サークルに出入りしておりました。
さて、活動の無い日の小生の楽しみは6キロほど歩いて、国鉄常磐線北千住駅北東にあった荒川鉄橋を眺めに行くことでした。
当時、千代田線は高架-鉄橋でしたが、常磐線は踏切があって鉄橋でしたから、汽車を眺めるにゃまた最高のロケーションだったんですわ。
やはり鉄道少年の小生は、ポケット版時刻表を片手に・・・なんてしないで、次に来るのは何だろか?なんて楽しみにしていた、全く銭の掛からないガキだったんですわ。
青緑の快速電車や小豆色の中距離電車に混ざり、肌色に赤帯の特急ひたち号(485系)や青や茶色の在来車列車、貨物列車なんかの中で、少年の心を釘付けにしたのが、真昼間だっつ~のに堂々と上野~青森間を突っ走る白に青帯の寝台電車を使った特急みちのく号だったんです。
またデザインも重そう(実際に重量もあります。)で、それがまた迫力に感じられて・・・
あの列車に乗ってみたいなぁ・・・
それが北海道へ行く切っ掛けだったんです。
親類が札幌に多く住んでいたので、中学2年の夏休み、母にねだって旅費を確保して、上野発14時48分発特急11M列車「みちのく」の乗客になりました。
自分がしょっちゅうこの列車を眺めていた、荒川鉄橋手前の踏切を、その車窓から眺めた時の不思議な感覚は今も鮮烈に覚えています。
何処かの近所の子供達が、手を振っていたんですね、その頃の小生同様に。
昭和47年3月15日のダイヤ改正で登場し、昭和57年11月14日に最後の運転を迎えるまで、ずっと
「上野発14時48分発・11M」
を守り抜いた「みちのく」。
まさか、その最後の列車を自分が上野駅地平第3ホーム(17・18番線)の放送台で送ろうとは・・・
「みちのく」は、対北海道継送チャンネルの一つとして、また「はつかり」の補完輸送列車として登場し、東北新幹線の実現で消滅しましたが、東北の主将が「はつかり」だとすると、「みちのく」は副将。
しかし最後まで食堂車を連結・営業し、青函連絡船には同じナンバーの「11便」に継ぎ、函館からは更に「11D」特急・北海(函館本線倶知安経由旭川、後に札幌行)へとリレーする、誇り高き副将でした。
まぁ、他と違う色と車体で目立つは目立つが、威張ったりしない。
それでいて重要な役割を担っている。
それが魅力だったんですね。
我もまた、斯く在りたい、と安房守は今も思い続けております。
