さて、上野駅員・・・ったって学生のアルバイトさんですが、それでも小生の「鉄道屋人生」が始まりまして、とにかく憧れでしたから「上野駅員」!見る物・やること・やらされる事全部が新鮮でした。
しっ・・・しかし!
現実はそんなに甘くなく、早速職員さんや先輩達のスパルタが始まります。
この時点で高校一年生は小生一人だけでした。
上野駅前の岩倉高校では、一年生の夏休みに半月ほど「鉄道実習」ってのがあるそうで、これを経てからで無ければ鉄道でのアルバイトは許されなかったとか、豊島区の昭和鉄道高校も二年生の「実習」で解禁だったそうです。
ってな事で同輩が入ってくるまでの四ヶ月間、小生は「どの道一番下っ端」だったのです。
「おい一年!ジュース買って来いっ!」
「はい」
「返事に元気がなぁい!」
「はいっ!」
「おい一年!夜食の牛丼買って来い!」
「はいっ!」
「おい一年!寝室の掃除して来いっ!」
「はいっ!」
なんて先輩達の使い走りをやらされて・・・
「おい学生っ!高架第4(7・8番線ホーム)行って424(列車=常磐線普通列車で在来型一般客車編成)のサボ(行先表示標=鉄板にホーロー引きの「上野行」なんて書いてあるもの)貰って来い!」
「はぁぁぁはいっ!」
「おい学生っ!ごみアゲ(ホームに据付のゴミ篭のゴミを回収する作業)して来いっ!」
「はいっ!」
「おい学生!酔っ払い寝てるから起こして来いっ!」
「はいっ!」
なんて、体育会系国鉄現場式な過酷な日々が・・・
それでもまぁ、楽しかったんですよ。
六月に入った頃、ホーム事務室で待機して居ましたら運転主任(イワユル帽子に赤帯+金線一本で見た目には助役職と変わらないものの、実は準管理職)さんが、
「あのさ、学生さんメシ作れる?」
聞けば食事当番の職員さんが指に怪我をして夕飯の支度が出来ないとかで・・・当時国鉄の多くの現場では食事は職員さん達が順番に当番で作っていたのであります。
で、カレーライスで良いと言う事になってその日の仕事は「食事当番」に変更され、小生の役割はその怪我をした職員さんが代わると言う事になりました。
当時地平第一ホーム(13番線)の脇に待合室があり、それに面して「購買」と呼ばれた「国鉄共済組合上野ストアー」と言う職員向け売店がありました。
ここへ行きまして材料を買い、野菜は御徒町駅前の「吉池」へ・・・
まぁ何とか出来たカレーライスとキャベツのサラダ+豆腐の味噌汁・・・だったと思うのですが、作り方はホーム職員さん一同に教えて頂きまして、いざ試食。
「おお!美味いぞ!学生さん、国鉄職員なんかにならねぇでこっち行ったら良いんじゃねぇかって程だぜ!」
まぁお世辞大半にしても、この仕事で初めて誉められまして、嬉しかったものです。
更に、食後の一息中。
「学生、ちょっと放送やってみろや。」
本当ですか!いよいよっ!
装置の使い方を教えて頂いていざっ・・・んんん・・・自分の声が反響残響して上手く喋れない!
「あっはっはっ!最初は誰でもそうなんだよ。慣れろ慣れろ!」
と運転主任さんは笑って消えて行きました・・・
この方とはその後不思議なご縁で、新松戸駅長~北浦和駅長で退職されるまでお付き合いをして頂きました。
緊張と興奮とで記憶が曖昧ですが、確か地平第3ホーム(16・17番線)特急「ひばり」だか「ひたち」だかの到着放送がデビューでした。
このホームにも縁がありまして、後に「特急みちのく」最終列車放送をこの放送室で小生、するのであります。
さて、泊り勤務ですからそのまま夜食の「うどん」と、翌朝の朝食とを「やっつけ」まして、勤務終了時には、
「この学生、メシ上手いぞ」
「そうか!じゃあ今夜もやれよ!放送やらしてやっからさ・・・俺、メシ当番苦手なんだよな・・・」
と、早速顧客拡大!
結局、一人きりの下っ端は虐められもしますが、可愛がられもしますし、何より仕事を教えて貰うチャンスが多い事に気付くのであります。
そうなると下っ端である事が気楽でして、随分楽しい思いをさせて貰いました。
結局、夏休みに二年生のアルバイトさん達が入って来た頃には常連二年生と同等の仕事を覚えておりまして、「密かな食事当番」の効果もあって、かなり優遇されちゃいました。
不幸は幸の切っ掛け、なんですねぇ。