『 思い 』は見えないもの。
物理的には質量はないはず。
なのに
あるとき とても重くて重くて
そして、
振り払おうとすればするほどに
重くなることがありますよね。
昨日のブログで
『誰からも必要とされていないと感じることは不幸』
というようなことを書きましたが。
確かに、誰からも必要とされていない
と感じた時のことを思うと
ふしあわせだと 感じるだろう
・・・ということは 間違いないと思うのです。
でも、関心をよせられて 必要とされていれば幸せなのか?
あるいは
受ける愛の量に比例して 幸福感は増していくのか?
といわれれば そうとは限らないなぁ・・・
と 昨日 つれづれと思ったのでした。
たとえば
相手からの思いに応えられないと
(=相手が受け入れられない or 受け入れ 限界を超えると)
とたんに、その思いは質量をもってしまう。
そう、ある閾値を超えたとたん
思いと思いの質量は比例する。
このことは、
恋愛でもいえることかもしれませんし
上司と部下の関係でもいえるかもしれないし
親子の関係でも いえるかもしれない。
特に親子の場合
明らかに親からの思いに 子が疲れきってしまっている不幸
というのも 確かによく見かける光景。
他人なら 思いを振り払えても
親子となるとそうそうたやすく思いを払えるものではないところが厄介。
親の思いが 質量を持ち始めると
親の愛情が子どもをスポイルしてしまうパターン
そういう 『思い』 は 相当に重い
そして、
その重さこそ 不幸の種になる。
思いを寄せる側は、
『思い』 が 無い のは 不幸
でも
在りすぎでても不幸
・・・という現実を知らないといけない
ということで やっぱり どこかに
しあわせなニュートラルポジションが あるのではないかしら?
また、思いを寄せられてる側は、
思いが 『在る』 という事実はしあわせなことだから
その思いが『在る』ことを認めて
素直に喜んだら しあわせ になれるはず。
でも
思いがあるのを認めることと
自分が、相手のその思いに応えられるかどうかということ
とは また 別の問題。
応えられないからと言って
思い煩う必要は ない !!
重い思い に 疲れたりしないで!!
と 東詩子ねえさんは 声を大にし言いたい!!
応えられようが 応えられなかろうが
それは 思いをよせられている事実に反することではない。
ただ 別次元のこととして認識せよってこと。
ごちゃごちゃにせず、
それはそれ、これはこれと
つまり それもまた、
ニュートラルにとらえればいいんじゃないかな~~
l
うまく 言葉にできなくて ごめんなさい。
まあ、
できそうで
できないのが
ニュートラルでいることなんですけどね。