近現代における差異の拡大と対立
1870年の第1バチカン公会議において、教皇不可謬説が正式なカトリック教会の教義として採択された。
ローマ教皇が信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえないとするものだった。
この採択内容は、高位聖職者たる総主教といえども誤りを犯す事は人間として当然に有り得るのであり、公会議の決定に総主教も従わなければならないとする正教会の伝統的な考え方とは全く相容れないものであり、これによってカトリック教会と正教会の差異はより広がった。
なお教皇不可謬説はカトリック教会内部からも異論の出るものであり、復古カトリック教会が成立する結果を招来してもいる。
ポーランドの正教会では150箇所の正教会の聖堂がカトリック教会の聖堂として強制的に転用されるという事件が1920年代に起こり、ウクライナとポーランドにおける東西両教会の関係に近現代においても尚しこりを残すこととなった。
古代から中世の初期にかけて教皇はローマ周辺に住む聖職者によって選ばれていた。
1059年に選挙権が枢機卿に限定され、1179年に入ってすべての票の権利が同等とされた。
教皇は一般的に枢機卿団から選出されるが、法的には教皇に選ばれるための条件としては(聖職者でなくてもよく)男子のカトリック信徒ということしかない。
1378年に選ばれた教皇ウルバヌス6世は、教皇選出時に枢機卿でなかった最後の教皇である。
通常、司教でない聖職者が教皇に選ばれると、教皇位に着く前に枢機卿団の前で司教叙階を受けることになっている。
現行の教会法では80歳未満の枢機卿から選出されることになっているため、そのような事態は起こりえない。
1274年の第2リヨン公会議では、教皇選挙のシステムが規定された。
それによれば教皇の死後、10日以内に枢機卿団が会合を開き、次の教皇が選出されるまでその場を離れないことが定められた。
これは1268年の教皇クレメンス4世の死後の混乱から、3年にわたる教皇の不在(使徒座空位)が続いたことを受けて定められたものであった。
16世紀半ばまでには教皇選挙のシステムは、ほぼ現代のものに近いものになった。
伝統的な教皇選出法としては「満場一致により決定する方法」、「司祭団の代表たちによって教皇を決定する方法」、そして「投票によって教皇を決定する方法」の三つがある。
満場一致の方法というのは、選挙者たちが新教皇の名前を叫び、それが完全に一致した場合に、その決定を有効とする方法であるが1621年以降用いられたことはなく、ヨハネ・パウロ2世によって「代表たちによる方法」と共に正式に廃止とされた。
結果的に枢機卿団による投票が教皇選挙の唯一の方法となっている。
1978年以前、教皇選挙がおわると新教皇を中心としてシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂へ壮麗な行列を行うことが慣例とされていた。
そして大聖堂につくと教皇は三重冠を受け、教皇としての最初の祝福(ウルビ・エト・オルビ)を与える。
続いて教皇の前で飾り立てられたトーチに火をともし、すぐにそれを消して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)という訓戒を与え、教皇が(かつて「近代主義に対抗する誓い」とよばれた)教皇宣誓を行うというのが伝統的な教皇着座の流れであったが、ヨハネ・パウロ1世以降の教皇の就任時にはこの種の古めかしい儀式は行われていない。
ラテン語の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒座空位)という言葉は教皇不在(通常は教皇の死去から次の教皇の選出まで)の状態を指す言葉である。
この言葉から「使徒座空位主義者」と呼ばれる人々の呼称が生まれた。
この人々は現代に至る数代の教皇たちは不当にその地位についていると考え、カトリック教会から離れている。
彼らから見れば現在の状態は「使徒座空位」であるということになる。
彼らがこのように唱える最大の理由は第2バチカン公会議以降の改革が受け入れられないことにある。
特にトリエント・ミサと呼ばれる伝統的なラテン語ミサが現代化の流れに沿って各国語で行われるようになったことが不満なのである。
このため、特に第2バチカン公会議以降、複数の自称教皇(対立教皇)が現れている。
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