alp-2020のブログ

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読書ノートその他
ギリシア哲学研究者の田中美知太郎は、その著書『ロゴスとイデア』に収められた論文を、”対話者の登場しない対話篇”として書いたという。私も、そんな風に書くことができればよいと思う。

 

 

FANATICISM (狂信)

 

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(第60節)

 人々を統一行動と自己犠牲に向かわせるには、人々の内面の均衡・自己との調和を崩す必要がある。大衆運動はそのために人々の心に激しい情念の火を点じ、人々が内面の均衡を保てないように仕向ける。自律的・自足的な個人は不毛で邪悪であると人々に吹き込み、情念の白熱を保とうとする。

(第61節)

 狂信者は常に不完全で不安である。自己を自ら拒否した狂信者は、自己以外のものに執着することでしか安心を得られない。その安心感は、大義の優秀性・卓越性から得られるのではなく、狂信者自身の忠誠心から得られるのである。狂信者は、何かを信奉したいという自分の欲求から狂信者になるのであり、大義の正当性が人を狂信者にするのではない。ひとつの大義が信奉への欲求を満たさなくなると、狂信者は容易に別の大義に乗り移る。

(第62節)

 相容れない異質な大義を信奉する狂信者たちは、「正反対の極にいるように見えるが、彼らは実際にはひとつの極に群がり寄る」。彼らは「隣人であり、殆どひとつの家族である。狂信者たちはサウロとパウロのように、遠く隔たり、そして近くにいる。狂信的な共産主義者にとって、穏健なリベラルになるよりファシズム、排外主義、カトリシズムに改宗する方がたやすい」。

(第63節)

 「神聖な大義を棄てるか、突然何も残さず立ち去る狂信者が、自律的な個人に自己を適合させることができるかどうか疑わしい。彼は世界のハイウェイで、目の前を往来する永遠の大義の車に親指を立てて乗り込もうとする宿無しのヒッチハイカーであり続ける。」

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第60節は、人々の情念に火を点じ、白熱化させることで人々を意のままに操ろうとする大衆運動の技法に関する記述である。調和した自己を保つ自律的な個人を改宗させるための技法である。

第61節以降は、既に自己の内的調和を喪っている人々に関する記述である。彼らは大衆運動の人心操作術によってではなく、人生の挫折とそれに伴う鬱屈によって内面の均衡を喪い、自己との不和をきたしたている人々である。大衆運動の大義は、修復不能な自己の身代わりとして、自分を遠くに連れて行ってくれる乗り物である。期待したほどのスピードが出ない乗り物であれば、彼らはそれを乗り捨てて、別の乗り物に乗り換える。

 

第60節と第61節以降は、つながっていない。

エリック・ホッファーは、異なる時期に書いた断章を、後にテーマごとに分類・整理して配列することによって本書を作り上げたと思われる。つなぎ合わせたピースはぴったりと接合されず、凹凸が多かったり少なかったり、はみだしがある。

 

ここでは「狂信者」(fanatic)という呼び名が一貫して使われている。”True Believer”は出てこない。”True Believer”という呼び名を考え付く前の時期に書かれた断章なのではないかと思う。

 

「大衆運動は生身の人間である支持者たちから個別性・自律性を剥ぎ取り、意志も判断力も持たない匿名の小片に作り上げることで、統一行動と自己犠牲を受け入れる精神を浸透させる。その結果、随意に形成可能な画一的で非人間的な群衆が生み出される。」(第60節)

 

これは大衆運動というより、一個の全体主義的体制に関する記述に見える。「鬼の如く蒼褪めたる露西亜虚無党員」式のプロパガンダ言説に近づいている。

 

ナチス・ドイツやスターリン治下のソ連の体制を外部から眺めた時、その中で生きる人々は人格を失った非人間的なものに見えてくる。しかしそれは外から(「西側」から)見ればそう見えるということであり、その体制の中で生きる人々は、それぞれなりに小狡く立ち回っていたりもする。自己を喪い、意志も判断力も持たない人間の口からスターリン・ジョークは出てこない。

 

狂信者が狂信者となるのは、自己の欲求によってそうなるのだと、エリック・ホッファーは言う。挫折者の損なわれた自我は、自分自身の身代わりを求め、それに取り憑く。狂信者=「憑かれた人」は、自己を棄て去りたい、大きな全体的なものの中に溶け込みたい、という自己の欲求に取り憑かれているのであり、大義に取り憑かれているのではない。

 

「憑かれた人」は、ある大義が自分の願望を満たしてくれないと悟れば、たやすく別の大義に乗り移る。

 

それは自己本位の改宗である。「憑かれた人」は、大義の車を何台も乗り換えながら旅をする「ヒッチハイカー」のようなものである。家族との不和から家を飛び出して路上生活をするように、「憑かれた人」は自己との不和から、自己を放棄して大義から大義へと渡り歩く。

 

運動体の内部で個別性、自律性、意志、判断力を失い、他と見分けのつかない小片か撚糸のひとつになってしまうというなら、そのような人がひとつの大義から別の大義へとふらふらと歩き回るようなイージーな生き方はできないだろう。それができるのは、その人が自己を喪っていないからである。意志も判断力も持っているからである。

 

複数の大衆運動が競合する自由な社会では、大義の乗り換え、乗り継ぎ、乗り逃げ、乗り捨てができるが、ひとつの運動体が権力を掌握し、「体制」となった場合には、こんな生き方はできなくなる。大義は強制的な「教条」になる。逃れることはできない。