alp-2020のブログ

alp-2020のブログ

読書ノートその他
ギリシア哲学研究者の田中美知太郎は、その著書『ロゴスとイデア』に収められた論文を、”対話者の登場しない対話篇”として書いたという。私も、そんな風に書くことができればよいと思う。

 

 

HATRED(憎悪) つづき

 

********************************************

(第69節)

 本当の不満からよりも自己への軽蔑から憎悪が生まれることは、憎悪と罪悪感の親近的なつながりにおいても見ることができる。

 相手に重大な不正を加えることによるほど、相手に対する毒々しい憎悪を私たち自身に植え付ける確実な方法はない。私たちに対して不満を持っている他者こそ、格好の憎悪の対象になる。自己正当化は私たちの内にある罪悪感の声をかき消すために打ち鳴らされる騒々しい音である。

 耳障りな言葉や行動、自己正当化の表明のうしろには、罪悪感がある。

(第70節)

 憎悪する相手にひどい扱いをすれば憎悪は強まり、寛大に扱えば憎悪は弱まる。

(第71節)

 罪悪感を鎮める最も効果的な方法は、相手が腐敗した人間であり、あらゆる刑罰や絶滅にさえ値する者であると、人々を説得することである。

(第72節)

 罪悪感は憎悪を亢進させる。信仰が荘重であれば、なおさら憎悪は激しくなる。

(第73節)

 全き悪人よりも、善なるものを持っている相手の方が憎みやすい。軽蔑している相手を憎むことはできない。

 憎悪の底流には相手に対する関心があり、それは私たちが憎悪の対象を模倣する傾向の中にその姿を現す。大衆運動はその敵に似せて自らを形作る。

 抑圧された人々がほとんど例外なく、彼らが憎む抑圧者のイメージを基に自己を形作るのは驚くべきことである。抑圧された人々の後の時代に生きる邪悪な者たちは、抑圧者を憎む理由のある被抑圧者が、抑圧者に似せて自分たちを形作り、それを永続化したという事実によって、邪悪なのである。

 憎悪は防衛のために共同体を動かす便利な装置ではあるが、長い目で見れば高くつく。私たちはその代償として、防衛のために設えた諸価値の全てか、その多くを、喪うのである。

(第74節)

 自分の価値のなさを知ることで抑圧を受けるとき、人は自分が人類最低の人間だと考え、全世界を憎み、全ての被造物に怒りをぶちまける。

 幸福な者が没落し、偉ぶった連中が名誉を喪うのを見て、鬱屈した人は深い安心を覚える。全面的な没落の中に、鬱屈した人は全ての人々が自分と同類になることに近づくことを感じる。渾沌は墓場と同じく平等の安息所である。新しいものが打ち立てられるようになる前に、古いものが破壊されなければならない。新しい生と秩序があるはずだという彼らの確信は、この実感によって油を注がれる。ミレニアムを求める彼らの喧騒は、全ての存在への憎悪と世の終わりへの熱望を通して噴出する。

(第75節)

 熱烈な憎悪は空っぽの人生に意味と目的を与えることができる。こうして自分の人生の無目的さに取り憑かれた人々は、神聖な大義に自己を捧げることによるだけではなく、狂信的な不満をかき抱くことによって、新しい生を見出そうとする。

(第76節)

 パスカルがいうように、「全ての人間はその本性においてお互いに憎み合」い、愛や慈善は「見せかけの誤った印象であり、その底には憎しみのほかは何もない」ということが真実であろうとなかろうと、憎悪は私たちの内面生活の全面を覆う要素であるという印象を免れることはできない。熱狂、献身、熱情、希望は、それらが壊れたときに憎悪を解き放つ。マルティン・ルターはこう述べている。「私の心が冷え切って祈ることができないとき、私は私の敵である教皇とその仲間たちや人間のくずたち、そしてツヴィングリのことを考えて自分を痛めつける。すると私の心は正当な憤りと憎悪で膨れ上がり、私は熱意と熱情を以てこう言うことができるのだ。汝の名は聖なれ、汝の王国は成ったり、汝の意志は遂げられたりと。そして私の心が熱く燃えるほど、私の祈りは熱烈になる」。

(第77節)

 統一と自己犠牲は、寛容と地上の平和を訴えるものであっても、同じ考えを持たない者に対しては暴力的な不寛容を示す傾向がある。

 自己からの疎外は熱烈な憎悪を造り出し、自己否定の行動は他者に対して苛烈で無慈悲になる権利を与える。「憑かれた人」、殊に宗教的な個人は謙虚に見えるが、その内では自尊心と尊大さが育まれている。

 自己を放棄する者は、自己利益だけではなく、個人の責任も放棄する。個人の独立を喪ったとき、私たちは新しい自由を発見する。それは憎悪の自由、弱い者いじめの自由、嘘をつく自由、拷問の自由、殺人の自由、裏切りの自由であり、そこには恥もなく良心の呵責もない。疑いなく、大衆運動の魅力はここにある。

 憎悪は統一の方法であるばかりではなく、統一の産物でもある。慈悲に満ちた国家、慈悲に満ちた教会、慈悲に満ちた革命党派、などというものはない。利己心に源泉をもつ憎悪と残酷さは、自己放棄から生まれた悪意と無慈悲に比べると効果は薄い。

********************************************

 

エリック・ホッファーは、第69節から第72節の断章で、憎悪と罪悪感の関係についての鋭い洞察を示している。

1923年、日本では関東大震災の混乱の中で、多数の「朝鮮人」が虐殺される事件が起こった。その背景には、エリック・ホッファーがいう「罪悪感」があったと思われる。日本は、威迫的な方法で韓国の独立を奪い、「日韓併合」と称して植民地化を強行した。宗主国の国民となった日本人は「朝鮮人」を自分たちより下位の人間と見て蔑み、差別してきた。しかしその裏には、「いつか彼らから復讐を受けるのではないか」という、かすかな怯え(罪悪感)があったと思われる。当時の日本人にとって、「朝鮮人」は「潜在的な改宗者」だったのだ。この罪悪感に点火して、激しい憎悪を引き起こしたのが「「朝鮮人」が井戸に毒を入れた」という類のデマであった。「朝鮮人」虐殺は、大衆運動ではなく、モッブ(暴徒)による暴虐だが、ホッファーの洞察をほぼそのまま当てはめて解釈できる事例である。ただしそれは罪悪感から発する憎悪ではあるが、その基底に「自己への軽蔑」があったかどうかは簡単には言えない。虐殺に関与した人々の所属階層は多様であり(中産階級に属する者、一部の警察官、軍人など)、社会の下層で鬱屈を募らせた人々ばかりとは限らないからである。

 

第73節では、憎悪する者が憎悪の対象を模倣するという逆説が説かれる。

ここで言われている憎悪は、被抑圧者の抑圧者に対する憎悪であり、被抑圧者が抑圧者を模倣するメカニズムである。ヨーロッパで抑圧され続け、ナチスによって同胞を大量虐殺されたユダヤ人の一部は、後にイスラエルを建国し、パレスチナ人に暴虐を加え始め、今も虐殺を続けている。

 

社会的な挫折者・失敗者は、上手く行かない自己への嫌悪を外部の誰かに投影して憎悪する。憎悪の対象は自己への嫌悪という負の情念が映す火影のようなものであり、ユダヤ人にも黒人にもアジア人にもなり得る。憎悪の対象となる人々を攻撃し苦しめることで、憎悪する側に罪悪感が芽生える。罪悪感は憎悪を亢進させる。憎悪の対象となって抑圧される側の人々は、抑圧者を憎悪すると同時に、抑圧者を模倣し始める。抑圧者に似たものになる。エリック・ホッファーは、憎悪という情念を、回転し続ける一種の円環構造としてとらえている。社会構造、階層構造、制度、イデオロギーといった外皮を剥ぎ取って、その底にある負の情念の流動だけを見ようとしているようである。

 

第74節~第77節では、挫折者・鬱屈者の憎悪が、特定の人々に対する憎悪にとどまらず、全世界への憎悪にまで行き着くことが説かれる。大衆運動の運動体と合一して自己を喪った人々は、悪徳の自由を手に入れる。自己放棄とは責任の放棄であり、恥の感覚も良心の呵責も失うからである。ここでエリック・ホッファーは「潜在的な改宗者」を、世の終わりまで求める激しい憎悪の持ち主にまで高めて(?)いる。ホッファーの文章自体がpassionateになっている。

 

「私が今このようにあることの原因が外部にある」という信念を持つのは、変化を熱望する人々だけではなく、変化に抵抗する人々も同じ信念を持つ(第2節)。変化に抵抗する人々の信念も、憎悪につながる。彼らが誰を憎悪するかといえば、社会に変化をもたらす可能性のある人々=「潜在的な改宗者」たちを憎悪するだろう。彼らの憎悪の原料は挫折者の鬱屈ではなく、自己の利害であり、憎悪の対象は自己の利害への脅威となる危険性を有する人々・変化に抵抗する人々に「有利な形で作動している社会という機械に下手な修理の手を加えてしまう」(第2節)可能性のある人々である。

 

「あの人たちは、おまえたちを憎む可能性がある。おまえたちの好む社会を壊してしまう可能性がある」と指し示すことは危険である。それは他者への予断を生む可能性があるからである。北部の黒人は鬱屈を抱えている者が多い。彼らは大衆運動に熱狂して社会の破壊に向かう可能性があるという主旨のエリック・ホッファーの言説(第40節)は、北部の黒人に対する予断を人々に広げる。それは北部の黒人に対する憎悪に結びつく。「大衆運動はその敵に似せて自らを形作る」ように、大衆運動の煽動者を憎む者が、煽動者に似てくる。憎悪の点火者になる。その結果もまた「長い目で見れば高くつく」(第73節)。「利己心に源泉をもつ憎悪と残酷さは、自己放棄から生まれた悪意と無慈悲に比べると効果は薄い」(第77節)としても、人の命は失われる。