(1)”The True Believer”の邦訳タイトルについて
欲求不満や挫折感に苛まれる人々がいる。彼ら彼女らは変化を渇望し、生きるに値する新しい生を狂おしく求める。
しかし彼ら彼女らは、自ら人々を扇動し大衆運動を始める人々ではない。
誰か別の人が始めた運動、広がりを持ち始めた運動のどれかを、扇動者におびき寄せられ、あるいは自分の志向や偶然に従って選びとり、没入し同一化して行くのである。
つまり「憑かれた人」は受け身の「依り代」ではなく、自ら何ものかに「憑依する人」である。
「依り代」となるのはむしろ大衆運動の方ではないか。
主客でいえば、「憑かれた人」が「主」であり、大衆運動は「客」である。
大衆運動の初期、信仰復興主義的な局面において前面に出てくる「憑かれた人」を、著者は観察の対象としている。
現時点で本書の邦訳は二種類出回っているが、いずれも日本語タイトルは『大衆運動』とされている。
これは著者の問題意識に照らして、原題の”The True Believer”に合わせた訳題とすべきではないかと思う。
しかし一方で、Eric Hofferの問題意識は一貫しているものの、その視点の置き方に多少の揺らぎがある。
「憑かれた人」をカテゴリー分けして各パーソナリティを論じる箇所(18以降)で、大衆運動の扇動者が人々を結束させるために家族などの親密圏を攻撃したり、人々に罪悪感を植え付け搦め取るための心理操作の記述が入っていたりする。
原題に合わせた訳題では却って焦点がぼやける面もあるかもしれない。
(2)Eric Hofferの記述形式について
本書は、著者が折に触れて書き溜めた随想的な断章を編集し、加筆してまとめた著作であり、最初から体系的記述を意図したものではないと思われる。
したがって本書は体系的な外形を持っているが、中身はアフォリズムの集積であり、それゆえに繰り返しが多い。
著者は、“「憑かれた人」は、自分自身の失敗した人生、損なわれた自我の代用品として神聖な大義への没入・同一化に向かう”という主旨を、あらゆる言い回しを動員して刷り込みのように何度となく反復しており、読んでも読んでも論旨が展開して行く気がしない。
「アフォリズム」という形式は、洞察と予見を表現する直感的な形式である。
しかし、そこには境界や限界、区画がない場合が多く、その場合には何にでも当てはめることができる。
読み手の側の得手勝手でご都合主義な「つまみ食い」が可能になってしまう。
昭和9(1934)年、陸軍省新聞班が『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍パンフレット)を発行した際、その本文の冒頭に「たたかひは創造の父」というヘラクレイトスの断片が、脈絡なく引用されたりするのはその典型である。
アフォリズムは読み手に注意力を要求する形式である。ニーチェもエリック・ホッファーもアフォリズム形式を愛した思想家であるが、彼等の著作を読むとき、アフォリズムの前後につながる文脈まで読み取って行く必要があると思う。