1942年、日本の対米英戦争開始の1年後に、雑誌『文学界』誌上で「近代の超克」と題するシンポジウムが行われた。
このシンポジウムに関わった人々は、「文学界」グループ、「京都学派」、「日本ロマン派」に属する作家、批評家、学者たちである。
「近代の超克」は当時の特に知的階層に属する若い人々に大きな影響を与え、民衆の「撃ちてしやまん」、「ゼイタクは敵」に対応するような、知識層にとっての標語となった。
「知識青年」たちは、「近代の超克」や京都学派の「世界史的立場と日本」に、自分が戦場に行く意味、戦争で死ぬ意味を託して戦地に赴き、ある者は戦死を遂げ、ある者は心身に癒しがたい傷を負った。彼らのうち、戦後に生きながらえた者には「近代の超克」への深い怨恨が残った。
こうして戦後の日本では、日本の近代を問い直すという思想的課題を冷静に扱いにくい状況となっている。思想的課題は現在も未解決のままである。
このような問題意識の下に、竹内好は「近代の超克」を振り返ろうとしている。
シンポジウム「近代の超克」は、主催者の意気込みとは裏腹に、噛み合わない議論が延々と続く体のものであった。竹内好によれば、それは「思想的には無内容であ」り、「「近代の超克」そのものが直接に知識青年を死へ駆り立てたのではない」。「「近代の超克」の最大の遺産は、(中略)それが戦争とファシズムのイデオロギイであったことにはなくて、戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかったこと、思想形成を志して思想喪失を結果したことにある」。
「近代の超克」はなぜ思想形成に失敗したのか。
竹内は、失敗の原因を、「近代の超克」の知識人たちが、戦争の二重構造(性格)に無自覚であったことに求める。戦争の二重構造(性格)は、竹内のよく知られた仮説であるが、これが私にはすんなりとは飲み込みにくい。竹内のいう戦争の二重構造(性格)とは何か。
「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一体化されていたが、論理上は区別されなければならない。」
「一方では東亜における指導権の要求、他方では欧米駆逐による世界制覇の目標であって、この両者は補完関係と同時に相互矛盾の関係にあった」。
(A)
1.中国に対する戦争は帝国主義的侵略戦争である。
2.対米英戦争は、帝国主義国相互間の戦争である。
2は侵略戦争ではない。
「日本はアメリカやイギリスを侵略しようと意図したのではなかった。オランダから植民地を奪ったが、オランダ本国を奪おうとしたのではなかった」からである。
竹内は、日本は1に関しては責任を有するが、2に関しては責任を問われるいわれはないとう。日本も米英もともに帝国主義国であり、帝国主義の原理を以て帝国主義を撃つことも裁くこともできないからである。
しかしアメリカやイギリスも、中国に武力侵攻して中国本土を奪おうと意図したわけではなかったし、一方日本には中国のみならず「世界制覇の目標」があったのではないか。
この竹内の仮説に対しては、戦争責任論の立場からの批判がある。
家永三郎は以下のように竹内説に反論している。
「日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとするアメリカ・イギリス・オランダと開戦することになったのであって、中国侵略戦争の延長線上に対米英蘭戦争が発生したのであり、中国との戦争と対米英蘭戦争とを分離して、別個の戦争と考えることはできないのである。」(家永三郎『戦争責任』)
上記の(A)を以下のように改変してみる。念のため、以下は竹内好自身の立場ではない。
(B)
1.中国に対する戦争は帝国主義的侵略戦争である。
2.対米英戦争は、白人帝国主義のアジア支配に抗するアジア解放の戦いである。
対米英戦の公的イデオロギーでは、2は上記のようになる。この場合、1と2には明らかな矛盾があり、二重構造(性格)を有していると考えられる。また、当時の知識人は1に対しては疑念と反感を持ち、鬱屈を抱え込んでいたが、2に「抵抗」を幻視し得たからこそ、12月8日に熱狂したのだと理解できる。
竹内によれば、2の戦争は「「侵略的性格をおおいかくす」ものとしてはじまったのであ」り、京都学派の哲学者たちはこのような「公の思想を祖述した」のである。
しかし、「アジアの解放」とは、どのようなものだったのか。
1941年12月8日、対米英戦開戦の日に、当時の情報局次長 奥村喜和男は以下のようなラジオ演説を行っている(吉田裕『アジア・太平洋戦争』)。
「アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い回(かえ)すのであります。アジア人のアジアを創り上げるのであります。」
しかし「近代の超克」の知識人たちには、竹内が指摘するようにアジアへの視点が欠落しており、一般民衆レベルではアジアに対する蔑視の感情が定着していた。当時の日本人に、アジアに対する共感や連帯感があったとは考えにくい。
奥村のいう「アジア」「アジア人」とは、実は「日本」「日本人」のことなのではないかと思う。
「アジア解放」とは即ち「日本解放」であり、白人帝国主義を駆逐して、日本がアジア全土に支配権を確立することであると考えるなら、二重構造(性格)は消失し、一元的で首尾一貫した、むき出しの国家エゴイズム=アジア・モンロー主義に還元される。
二重構造(性格)は、対米英戦に限ったことではなく、「征韓論にはじまる近代日本の戦争伝統に由来していた」と、竹内はいう。それは明治以来、日本が近代化の過程で抱え込んできた根源的な矛盾であった。
日本は「自分がドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした」(竹内好「近代とは何か」)。
(C)
1.ドレイであることを拒否する。
2.ドレイ状態から脱却するために、他者をドレイ化し、自分はドレイの主人になる。
ドレイ解放の戦いは、自分が主人になるための戦いであり、主人―ドレイの関係の構造自体に抵抗し、それを覆そうとするものではない。自分が主人になりおおせても、主人―ドレイの構造はそのまま温存される。
「ドレイは自分がドレイでないと思うことでドレイである。」
「国粋主義や日本主義が流行したことがあった。その国粋や日本は、ヨオロッパを追放するということで、そのヨオロッパをのせているドレイ的構造を追放することではなかった。」
(「近代とは何か」)
ドレイは嫌だというのは抵抗だが、別の誰かをドレイにして自分は主人になりたいというのは、それ自体がドレイの思想である。ドレイの思想は、自分以外のドレイの運命には無関心で無慈悲である。
竹内のいう「戦争の二重構造(性格)」とは、このことなのではないかと思う。
しかし竹内は、当時の日本人に、アジアへの連帯感情がなかったという立場はとっていない。
「大東亜戦争」には、「日本人がアジアを主体的に考え、アジアの運命の打開を、自分のプログラムにのせて実行に移した」という「固有な性格」があったと、竹内は述べている(「日本人のアジア観」。以下の引用も同じ)。
「当時、アジアは深く日本人の心のうちにあった。そのアジア認識がじつは誤っていることを敗戦によって教えられるわけだが、誤ったにせよ、ともかく主体的に考える姿勢はあった。」
「朝鮮の国家を滅ぼし、中国の主権を侵す乱暴はあったが、ともかく日本は、過去七十年間、アジアとともに生きてきた。そこには朝鮮や中国との関連なしには生きられないという自覚が働いていた。」
「侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。」
「侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる。」
「侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感」、これはドメスティック・バイオレンス、モラル・ハラスメント、ストーカー行為etcをやめられない男たちの言い分ではないか。相手を対等な他者とみなしていない者の言いぐさである。相手に対する蔑視から連帯感は生まれない。相手に対する支配欲から連帯感は生まれない。「健全で」あるわけがない。
竹内好「近代の超克」の中で、私が最も共感できたのは、次の言葉である。これは竹内自身の主張ではなく、文芸批評家 江藤淳の批評文からの引用である。
「現代の日本には加藤周一氏のいうように『伝統論』より、人権宣言のほうが必要だ」。