どーも、子連れおーかみです。
パソコン、ようやく使えるようになりました!
使用しているプロバイダによっては、WiFiルータが接続先を自動認識しない場合が有るようで、その時は接続先情報を別途設定する必要が有ったみたいです。
自分の使っているプロバイダはどうやら自動認識できないプロバイダだったようで、設定しないと繋がらなかったので今回の件が起こったみたいです。
しかし。。。マニュアルにその設定が必要な事について、隅っこの方にほんの少し、しかも非常わかりづらく漠然としか書いていなかった!
ルータのメーカであるN〇Cのコールセンターへ連絡して、漸くその意味がわかって設定手順を教えて貰ったのですが、その手順はマニュアルには全く載ってない!てか、そこ滅茶苦茶大事やん!そこ載せなくてどうすんのよ??それに載せないとコールセンターへ連絡する人、続出なんじゃね??
なんか最近、こういうマニュアルとか説明手順がかわりづらくて不親切ってケース、要は不備って事ですが、結構あります。
今日、JRの特急券買う時にも同じようなことを思いました。
まあ、その件はまた別途書くとしてPCが使えるようになったので沖縄決戦のレビュー、再開します!
前回は、6月中旬に賀谷支隊が賀谷隊長以下全員玉砕したと所までレビューしました。
日本軍は一応首里からの撤退は完了しましたが、戦闘要員は10000人余りにまで減ってしまい、圧倒的な米軍の戦力の前に壊滅は時間の問題となったのでした。
そんな中、摩文仁地下壕の第32軍司令部の牛島司令官を島田沖縄県知事が訪れます。
島田知事:「これから国頭の方へ行きたいと思いますので、お別れに参りました。」
牛島軍司令官:「よく来てくださいました。ま、どうぞ。」
島田と牛島は、お互いが持っていた削り節とサトウキビの茎を交換し合い、しばし交歓します。お互い最期の時が迫っている事を悟ったのか、南部撤退時の遺恨も忘れたような和やかな空気が流れます。
両者の最後は、本当にこのように和やかな感じだったんでしょうかね?
因みに島田知事は、牛島司令官、長参謀長の自決後の6月26日、摩文仁の司令部壕を出て以降の消息は分かっておらず、遺骨も見つかっていません。
摩文仁の壕を出る少し前、毎日新聞の支局長が島田を訪ねた際、文官である知事は自決の必要が無いのだから最後は投降したらどうかと言ったそうです。
それに対し島田はキッとなって「君、一県の知事として僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう。」と言ったそうです。
島田は県知事として沖縄に赴任する際、生きて還れないものと覚悟して日本刀と青酸カリを持参したそうですが、その覚悟通り、最後は摩文仁のどこかで自決したものを思われています。
同じころ、沖縄を脱出した神航空参謀はやっとの事で東京へたどり着き、河辺参謀次長(下写真右、演:北竜二)を自宅に訪ね、直々に増援の航空機出撃を要請したのでした。
しかし河辺参謀次長は第32軍の航空作戦軽視の思想を責め、沖縄がこの状態に至ったのは第32軍の作戦思想の誤りの結果で、ここに至っては沖縄の玉砕もやむなし、と神の要請を冷たく突き放します。
それにしてもこの言い種!仮に第32軍が大本営の指示通り航空作戦を重要視し、飛行場建設を優先したとして、大本営が沖縄に割ける航空兵力は果たしてどれだけ有ったのでしょうか?またそれでどれだけ勝利の見通しが有ったのでしょうか?
1939年、モンゴル・満州国境で発生した日ソ紛争、ノモンハン事件の際にも、圧倒的なソ連軍の機甲兵力・砲兵力に殆ど素手に近い状態で勇戦し大打撃を与え、最後は全滅に近い状態で後退した現地部隊を大本営の参謀達は大本営の指示通り戦わない弱兵呼ばわりし、それが原因で負けたんだと責任を現場に転嫁したそうです。
本当に中央がこの傲慢で無反省、かつ冷酷な姿勢では、とてもじゃないが総力戦など勝てるわけがないと思います。
総力戦は、あらゆる局面でいかに現実と向き合い、そしていかに勝利に向けて改善を積み重ねることが出来るかを、文字通り国同士が総力を尽くす戦いな訳です。
平凡でも着実さが求められる訳で、見たくない事実は見ないで、自分達の戦略の誤りを第一線に転嫁すれば済むような非科学的、詭弁的性質とは真逆な代物なわけです。
第32軍の持久戦術が現実に即した戦法である事は、圧倒的に優勢な米軍を3か月近くも釘付けにし、かつその米軍からの評価も高いことからも良く分かります。
沖縄決戦では、神参謀の役回りは私は嫌いですが、さすがにこのシーンでは神参謀を気の毒に思うと共に、河辺参謀次長の言い種は上に書いたような日本的悪癖の典型で、大変憤りを感じました。
日本軍の敗勢は更に進み、6月18日頃には遂に司令部と各部隊間の通信は途絶して組織だった指揮は困難となると共に、米軍は司令部右翼数百メートルの位置まで迫っていました。
その状況で第32軍司令部は最後の命令を下達します。
八原:「全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり。然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る。既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり。爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし。」
これは沖縄戦における日本軍の組織的戦闘の終結宣言だったのでした。
この命令に基づき、ひめゆり学徒隊は動員を解除されます。
引率の教師が生徒たちにひめゆり学徒隊の解散を言い渡します。
しかし、米軍がすぐそこに迫り逃げ場も無いぎりぎりぎりの土壇場で解散を宣言されても、一体どうすれば良いのでしょうか?
事実、この後壕を米軍に攻撃されたり、自決したりなどのいわゆるひめゆり学徒隊の悲劇はこの後に起こっています。
目(さがん)軍医率いる第二外科も例外無く解散となります。
目軍医:「各々思い通りに行け。第二外科は只今解散する。」
自身に注射器を打とうとする目軍医に、辻町のしーちゃんが涙ながらに話しかけます。
しーちゃん:「先生、もう死んじゃうんですか?」
目軍医:「ばかもん!ビタミン剤だよ。」
注射器はなんとビタミン剤だったのでした(笑)。
さて、死ぬほど眠くなってきたので、一旦ここで切ります。
ご精読、ありがとうございました(人''▽`)☆。