どーも、子連れおーかみです。

 

前回更新から仕事で色々面倒な事があり、「沖縄決戦」の更新が遅れてしまいました(>_<)。

 

昨日でようやく落ち着いたわけですが、まあ「色々」の内容については別途機会が有れば書くとして、「沖縄決戦」の続きを書きたいと思います。

 

前回は5月24日に義烈空挺隊によって行われた米軍読谷飛行場、嘉手納飛行場に対する空挺特攻の所まで書きました。

 

それに先立つ5月22日に、牛島軍司令官は首里から南部への撤退を正式に決定。そして義烈空挺隊による攻撃が行われた5月24日には、那覇が陥落します。

 

そして5月下旬から降り始めた梅雨の豪雨の中、日本軍は南部への撤退を開始します。

 

当然、南風原の陸軍病院にも後退の命令が下達されます。

 

比嘉軍医:「司令部移動に伴い、当陸軍病院も南に下がる事になった。医療品は各自、持てるだけもって運ぶ。独歩患者は連れて行くが、重症患者は壕に残す。」

 

大空真弓が写っていますが、泥だらけの顔でもやはりき・れ・い(笑)!その隣には、岸田森がポーカーフェイスでぬぼーと立っています(笑)。

 

仲宗根教諭(上写真中央、演:滝田裕介):「壕に残す?」

比嘉軍医:「壕に残して処置せよとの命令です。」

仲宗根:「…処置・・・」

 

この日本沈没の幸長助教授、もとい滝田裕介演じる仲宗根教諭は、昔の女学校の男性教諭はこんな感じだったんだろうな、言った穏やかでやさしげな風情です。

 

やがてひめゆり学徒隊一行は、命令通り歩ける患者に付き添い出発します。

 

兵士:「女学生!俺も連れて行け!お前らの為に戦ったんだぞ、お前らの為にぃぃ!!」

 

置いてゆかれる兵士たちの絶望的な絶叫を涙を呑んで振り切ります。

 

 

そして残された兵士達には衛生兵達の手で、青酸カリ入りの牛乳が配られて行きます。

 

 

 

負傷して片足を切断したワコちゃん、もといひめゆり学徒隊の渡嘉敷良子は、仲宗根教諭と友人たちが連れ出そうとしましたが、激痛に叫ぶ彼女を彼らだけの力では上手に運ぶことができません。

 

仲宗根は壕から飛び出して、後退してくる兵士を手当たり次第に捕まえ、手を貸してくれるよう頼みますが、誰も止まるものは有りません。まあ、誰もが自分の事で手一杯でしょうからね・・・。

 

ついにあきらめた仲宗根は必ず迎えに来ることを約束して、出発する事にします。

 

仲宗根:「渡嘉敷!後できっと迎えに来るから!」

渡嘉敷:「はい・・・。待ってます!先生、気を付けて行ってください。」

仲宗根:「渡嘉敷・・・。」

 

必ず迎えに来るから、と言われた後、それで自分の運命を悟ったようにふっと目をそらす酒井和歌子の演技が素晴らしいです。しかし、先生や仲間を心配させないために「待っています」と言うところが、けなげで涙を誘います・・・。

 

この後は、兵士が次々に自決して行く非常に悲しいシーンが続きます。

 

南風原陸軍病院だけで、なんと2000名もの兵士が自決したそうです。

 

「生きて虜囚の辱めを受けず」との教えがもたらした惨い結果でした。

 

米軍や英軍であれば、負傷者を殺さずに敵の手に預けて生かすと共に、負傷者の世話で敵に負担を掛けさせる、そして酷い目に合わされたら「捕虜虐待だ」と大々的に非難して敵のイメージダウンを図る、そう言ったあざとい手段を取るでしょう。(「バターン死の行軍」のケースのように)しかし、日本にはそういったしぶとさや狡さ、図々しさが無いんですよね。潔いと言うか、諦めが早いというか・・・。

 

現代の外交でもその気質は余り変わっていないような気がします。まあ、何千年に渡って培われた民族的な遺伝子は、そう簡単には変わらないでしょうけどね・・・。

 

 

首里撤退時、戦闘員・後方要員合わせて5万の兵員が撤退に参加したのでした。兵士たちは、豪雨の中、夜陰に紛れて南部への道を辿ります。

 

 

そして、5月27日には牛島軍司令官、長参謀長といった第32軍首脳部も首里を脱出します。一緒に青大将、もとい田中邦衛演ずる散髪屋も脱出します(笑)。

 

 

米軍も日本軍が大規模な後退を行っていることに気づき、砲爆撃でこれを阻止しようとしてきます。

 

一日橋(那覇市上間付近)は南部への交通上の要衝だった為、米軍の砲撃が特に集中し、橋を渡る際に多くの犠牲者が出たそうです。映画でも、そのシーンを忠実に再現しています。

 

司令部後退の殿となった八原高級参謀は、犠牲となった避難民の老若男女の死体が累々と横たわる道を、南部へと下って行きます。外套を着ずに羽織るところがダンディーです(笑)。

 

避難路を逆の方向へ歩いてゆく若い女性を見つけ、八原は声を掛けます。

 

八原:「ここもすぐ戦場になります。早く知念半島に・・・。」

 

当時の軍人らしからず、穏やかな口調で声をかけている所がステキです。

 

しかし、女性は八原の声など聞こえないように行ってしまいました。不審そうにしている八原を見て従っている外間曹長が声を掛けます。

 

外間曹長:「高級参謀殿、お気づきになりましたか!?」

八原:「何をだ?」

外間:「あの婦人、子供の足を持っていました!」

 

 

女性は気が触れていたのでした。

 

うる覚えなのですが、この下りは確か実話で、八原大佐の回顧録に載っているはずです。

 

県民の多くは軍の南部撤退に従ったのですが、その際に砲爆撃に見舞われ、多くが犠牲になったのでした。上のような悲劇は随所に起こった事のはずです。

 

一方、仲宗根教諭率いるひめゆり学徒隊の一行は何とか南部へたどり着き、比嘉軍医、上原婦長ら一行と再会したのでした。

 

上原婦長:「仲宗根先生!」

 

仲宗根教諭:「婦長さん!」

 

感動的な再会です。生徒たちも上原婦長へ駆け寄ります。

 

そして、撤退途中、どこかの畑で手に入れたであろうキャベツを婦長から貰い、きゃぴきゃぴ言いながら、分け合って食べます。束の間の休息です。

 

しかし、それも長くは続かず、収まっていた砲声が再び聞こえ始めます。

 

第32軍司令部首脳は5月30日に、新司令部が置かれた喜屋武半島南端の摩文仁に到着したのでした。

 

八原高級参謀も牛島軍司令官一行に遅れる事、1時間程度で摩文仁に到着し、先行していた長野参謀に迎えられます。

 

長野参謀:「ご無事で・・・!」

八原:「閣下たちは?」

長野:「1時間ほど前にお着きです。」

八原:「敵はどこまで来てる?」

長野:「那覇と首里に侵入、南下を始めました。」

八原:「わが方の配備は?」

長野:「・・・・」

八原:「どうした?」

長野:「・・・約3万しか撤退できなかったようです。」

 

八原:「・・・・なに!?」

長野:「各連隊とも、今や実力は1個中隊以下です!2割に満ちません。」

 

衝撃的な事実に八原は声も出ず、目をぎょろぎょろさせるだけです(笑)。

 

3万人と言っても後方要員を含んでの数で、実際の戦闘可能な兵員は1万1千人に過ぎず、壊滅に等しい有様だったのでした。

 

しかし、ここからも日本軍は抵抗を続け、組織だった戦闘は1か月近く続きます。

 

長くなったので、ここで一旦切りたいと思います。

 

今日も20分位しか進めなかったなあ(笑)。

 

それでは、また!