義姉の家の滞在記後半を書こうと思いましたが、今日は父の初命日なので記録としてそちらを書かせていただきます。
ちょうど1年前のこの日、父は天国へと旅立ちました。
日本時間 7月11日
アメリカ時間 7月10日
昨年5月、緊急帰国して父と会ったのが最後でした。
一時的に滞在していたホームで体調を崩したため、より良いケアが受けられるホームへの移転手続きをするために帰国。
無事移転できたものの、そのわずか1か月半後に亡くなってしまいました。
新しいホームでそろそろ慣れてきたかな?...と思った矢先の出来事。
6月下旬に突然、Lineの電話が鳴りました。
父が移転したホームから。
そちらに駐在している、看護師と医師からの直接の電話でした。
父の心臓がかなり弱っているみたいなので、病院に搬送しても良いか?との連絡でした。
もちろん病院で診て欲しいですが、ホームとしては家族の同意が得られないと搬送できないそうなんです。延命の選択などもある関係上。
(意識不明になったりとか、非常に緊急な時は除く)
迷わず同意して病院に搬送してもらうことにしました。
兄にすぐに連絡をして、病院に付き添ってもらいました。
検査の結果、肺にかなり水が溜まっていて、心臓も弱くなっているとのことでした。
意識はあったのですが、もう自力で食事をとることもままならなくなっていました。
5月に会った時も、食事を満足に摂らずやせ細っていましたが、私の前では頑張って食べていたことを思い出します。
兄からは毎日、状況の連絡がありました。
ただ、医師の話しでは「いつ心臓が止まってもおかしくない」と言われていたそうです。
延命については、生前から父がそれを望まないことを聞いていたのでしないことにしました。
なので、覚悟はしていたのですが…。
7月10日 深夜。
兄のところへ病院から「父が危篤」という電話があり、終電も終わってしまう時間だったのでタクシーで病院に駆けつけた…という連絡をもらいました。
そして日付が変わってすぐ。
7月11日午前零時56分。
父は眠るように逝ったそうです。
6月に92歳になったばかりでした。
死因は老衰。
92歳で老衰で亡くなるのであれば、大往生…と言えるのでしょうが、私にとっては早すぎる父の死でした。
父はずっと健康で大病をしたことは無く、普段から健康にもとても気を付けている人でした。
だから100歳まで生きるって信じていたのに。
ただ、昨年5月に会った時の、あのやせ細っていた身体を見て、なんとなく覚悟はしていました。
❀
今年2月に日本に帰った時、菩提寺のご住職とお話をさせていただき、一周忌法要はちょっと早めの6月にすることに決めていました。
東京は7月はお盆の時期でもあり、お寺は何かと忙しいというのも理由の1つだったのです。
私は、父の一周忌にも日本に帰ることができませんでした。
今回も葬儀の時と同様、ご住職と兄のはからいで、オンラインで父の法要に参加させていただけたのがありがたかったです。
お位牌は私の手元にあるので、お位牌と遺影を抱きながらご住職のお念仏を聞かせていただきました。
遠く離れているとは言え、葬儀にも一周忌法要にも帰れなかったことに対し、やはり自責の念を禁じえません。
でも、2月に会った時のご住職のお言葉で、
「大切なのは故人を想う気持ちです。」と言われたので、それを信じようと思います。
父の日に買った白い菊がいよいよ終わりを迎えていたので、今日は白いカランコエを勝ってきました。
切花にすべきか悩みましたが、お花を長持ちさせたかったので鉢植えに。
特にカランコエはお花が長持ちするし可憐で清楚なイメージが好きです。
母も父も花が大好きでした。
母は園芸上級者
父は趣味でサツキの栽培をしていて、何度も賞をとっていました。
↓ 大昔に賞を頂いた写真の画像が見つかったので掲載しちゃいます(左端に立ってるのは若き日の父)
長年警視庁に勤めていたので、柔道4段、剣道5段の上級者。
野球も好きなスポーツマンでしたが、サツキの栽培や民謡も好きな父でした。
おしゃれなロマンスグレーからは程遠かったけど、老若男女から好かれる人気者の父でした。
父の初めての命日。
人前に出るのが好きな父でしたので、ちょっと父の自慢話をしちゃいましたが、どうぞお許しください。
ここまで、長文にお付き合いいただいた方々、ありがとうございます。
父を想い懐かしむときのメンタル天気: しとしと雨