で、続きです。

兄は県外での大学生活を送るために、遂に独り暮らしを始めた。なかなか会えなくなったが、親は2.3日置きには電話してたかな。やはり心配だったのだろう。なんせ色々無頓着だったからね。

実は、具体的な大学生活はあまり聞いたことはない。この頃は俺もあまり家にいなかったから。兄は長期休みとなれば実家に帰ってきて、直接話はするものの特に何事もなければそんなに詳しく聞かないし、様子を知るとすれば親が話しているのを何気なく聞いた時だけ。

確か兄が大学2年になりたての頃だったか、スーパーの倉庫?でバイトを始めたという話を聞いた。土日だけのものだったかな。兄にとっては初めての就労だった。俺としてはまあよく頑張ってるなーという感じだった。そして卒業したら帰ってくるのかなー、とか、どんな仕事をするんだろう、とかたまに考えたものだった。とにかく、時々話を聞いてみても特別変わったことはなかったと思う。

そして大学2年の後半、状況は一変する。

親父が兄貴との電話で突然キレ出したのだ。

「バイトなんか辞めろ」とか「ダメだ。帰ってこい」みたいな。30分くらい続いた気がする。電話が終わって事情を聞いてみると、どうやら兄の留年が決まったらしいと。そして親父は留年させる気はないから帰らせると。

それを聞いて、俺は少し可哀想だなと思った。

せっかく一人で今まで頑張ってきたのに、もう一年くらい頑張らせたら、と言いたかったが、急なキレ具合に萎縮したのか言えなかった。


結局兄は、大学に2年通って、実家に帰ってくることになる。

今思えばだが、在学中に俺の知らない所で様々な事は起こってたんだと思う。大なり小なり。であれば、普段あまり怒らない親父が急にキレたり、一発で退学にしたことは納得がいく。

我慢の限界か、単純に「留年させる意味が無かった」のだろう。留年の理由はわからない。成績なのか通学日数なのか。

まあ、これはしょうがない。起こり得ることだ。


丁度その頃、俺は高校を卒業して、夜のコンビニでバイトをしながらバンド生活を送っていた。

つまり日中は家にいた。兄ももちろん家にいた。親にバイトを勧められ、時々履歴書を書いている姿を見た。

昼間は俺は半分寝ていたが、起きると兄は大体リビングでテレビを見たり、新聞が好きでしょっちゅう広げて見てた。歴史も好きで、親が兄のために買った戦争のドキュメンタリーDVDも繰り返し見てたな。

どうせ夕方になればバイトの準備だし、リビングで一緒にいたとしても2.3時間。たわいもない話をしたり、別に悪い気はしなかった。

ただ兄はなかなかバイトが決まらなかった。上記のような生活が繰り返し続く。いや、結果的には「何年も続く」。

兄は外に出ない訳ではなかったが、履歴書を出しに行ったり、コンビニに行ったり、たまに遊びに来る友人と出掛けるくらいだった。なんせお金をそんなに持っていなかったから。

ただ俺は、もはや大の大人の兄弟が日中に実家にいるという状況にだんだん耐えられなくなってきていた。

それでも毎日履歴書を書いては平然と暮らしている兄に、少し苛立っていた。毎日履歴書を書いているのはいいが、なかなか受からない。本当に受けているのか、本当に送っているのか、なぜ受からないのか、色々疑問に感じてきたのもある。

一つ、言っておくとすると、この記録は俺が主観的に書いているものなのでご了承下さい。

で、兄には焦りや不安が全く見られず、それでも何枚も何枚も履歴書を書いていた。俺もそれまで何枚か書いてきたが、通常、履歴書を書くのは面倒だし数枚でも苦痛だと思うはず。早く解放されたいと思う。はず。いや、思っていたのかもしれない。表に出さないようにしていたか、それこそ表出が出来なかったのか。俺自身も、兄には仕事の話を遠慮していた。嫌な気持ちになるかと思ったから。ただし、俺はこの辺りから「兄は何か異常がある。いわゆる、コミュ障かもしれない」と思い始める。それでも家で話す限りある程度普通なのだ。よく兄は「ボケ」て笑わせようとしてきた。それもしょっちゅうだ。これ、今考えると「わざとじゃない」可能性もあったのかなと。「ミスをごまかしていた」可能性もあったのかなと。それでも、一緒にいた家族からすると、「普通」な感じに思えたのかもしれない。


この頃から、俺は親に少しずつ言うようになる。例えば上記のような、本当に受けているのかと疑問をぶつけてみた。しかし親は「受けている。そのうち受かるだろう」と。信じるほかなかった。

因みに「兄のバイトの選定は、ほとんど両親が」行っていた。求人雑誌に印を付けておき、それに兄が応募する形だ。

さらに俺は、その頃から「受からないのは親の方にも問題がある」と思い始める。

なぜなら、親が決める事自体問題なのだが、大体が接客業だったからだ。いや接客が悪いわけではない。本人も何でも良さそうではあったが、偏っている。ここまで受からないのには適正ではないんじゃないかと思っていたからだ。


俺が「なぜ接客以外も受けさせてやらないのか?他にも色々あるだろう」と親に言うと、「人と関わらないなんてダメ」の一点張り。それはわからなくもない。簡単に言うと、いわゆるコミュ力を付けて欲しいということだ。親もある程度気付いていたか。しかし、あくまでアルバイトでここまで決まらないのは異常だ。何枚書いたかわからない履歴書。グダグダ過ぎていく時間。もちろん面接から問題があるかもしれない。しかし付き添えないしわからない。

俺も焦っていた。何とかこの毎日を早く変えたかったのだ。これからもこんな時間が流れていくのかと思う事が苦しくなっていた。


丁度付き合いを始めた辺りか、兄にバイトが決まった。

コンビニのバイトだった。とりあえずホッとした。親もそうだっただろう。そこから、親と一緒にお札の数え方とか練習していた。正直くだらない、と俺は思っていたけど、兄は超不器用なので、それすら上手く出来ていなかった。まあ何にせよ良かったなと思った矢先。

1ヶ月で辞めてきたのだ。兄が言うには「合わなかったから自分で辞めた」と。親はまた探そう、くらいかな。後から親父が俺のところにきて「多分クビになったんじゃないかと思う」とさりげなく言っていた。俺もそうだと思う。正直俺は「やっぱり辞めたか」と思うのと同時に、親に対して「だから言っただろ」と思っていた。むしろ直接言ったかもしれない。「もっと幅広く受けさせろ、工場でも何でも。適正ってあるだろ」と。それでも親は黙々とする作業を嫌った。いい加減にしろと思ったが、兄にも問題はあるだろうと考えたし、親も「慎重な人」だったし、何にしろ俺も色々疲れてきていたので、とりあえず好きにするよう任せた。


こうしてまた履歴書を書く日々が続いた。たぶん1日に2.3枚。これが何年も。後述するが、俺が家を出た後も書いていた。

計算するととんでもない枚数になる。1つや2つの町の分を出しきったんじゃないかというくらい。本当に出していればだけど。もう俺もよく分からなくなっていたのもあるし、自分としても分岐点に入ってきており、人に構う余裕が無くなっていたのもある。


俺は色々悩んだ結果、バンドを辞めて、独り暮らししながら学校へ行くことに決めた(同棲に近かったが)。ついに家を離れることにしたのだ。

俺は23歳、兄は25歳だったと思う。

この後、兄はある資格を取得することになる。が、


長くなったので、続きはまた。