日航機墜落事故から30年 | 同じ空の下で ~ To you who do not yet look ~

同じ空の下で ~ To you who do not yet look ~

まだ見ぬあなたへ。僕らは、同じ空の下にいながらも、それぞれの感じ方で生きている。
「偶然は必然」というように、僕らを直接結びつけるものはなくても、意図しない形で、思いもよらない所で、あなたと私がきっかけひとつで繋がったことに感謝☆




(以下、日テレNEWS24より)


520人が死亡した、日航ジャンボ機墜落事故の機長の娘は、

実は今、日本航空の客室乗務員として働いている。事故から、12日で30年。

彼女を支えていたのは、ボイスレコーダーに残されていた、父親の音声だった。


【空の安全願う…灯籠流し】


墜落現場がある群馬県上野村で11日夜、遺族たちは、それぞれの思いを灯籠に込めた。

事故で娘を亡くした女性「30年娘を失った悲しみは変わりません、本当」


事故で娘2人を亡くした女性「立ち直れたなんてことは一切言えません。

いつまでも引きずっていると思います」


あれから30年がたとうとしている。

【日航機墜落事故とは】


1985年8月12日、午後6時56分、

上野村の御巣鷹の尾根にジャンボ機、日本航空123便が墜落した。死者520人。

単独の航空機事故では世界最悪の事故だった。

事故の原因は、客室の気圧を保つためのお椀型の壁「圧力隔壁」だった。

ここに穴が空き、吹き出した空気が垂直尾翼などを破壊、制御不能になったのだ。


123便のボイスレコーダー。そこには、コックピットで格闘する機長たちの声が残されていた。

機長(墜落32分前)「まずい、何か爆発したぞ」

機長(墜落6分前)「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」

副操縦士「コントロールがいっぱいです」

声の主は、高濱雅己機長(当時49歳)。高濱機長には、当時高校3年生の長女・洋子さんがいた-。

【長女・洋子さん、客室乗務員に】

事故から30年を前にした先月、私たちは、洋子さんを取材した。

選んだ仕事は日本航空の客室乗務員。父と同じ“空の仕事”だった。

洋子さんには、初めてのフライトから持ち続けているものがある。

高濱洋子さん(48)「JALの飛行機を守ってくれている、そういう思いから持っております」

所々がすり切れた写真。それは、父がコックピットで写る唯一の写真だった。

【苦悩の日々】

自分自身も遺族である一方、“墜落したジャンボ機の機長の娘”という立場。

事故当時、洋子さんにとって苦悩の日々が続いた。


高濱洋子さん「『519人を殺しておいて、のうのうと生きているな』とか、

たくさん電話がかかってきましたので。その度に母は、見知らぬ嫌がらせの電話にもきちんと応対し、

『申し訳ございません』『申し訳ございません』、ただそれだけ何回も繰り返しておりました」


“父を探したい”、だが、昼間の遺体安置所には、多くの遺族がいた。

そのため、ひと気がなくなる夜を待ってから父を探し歩いたという。

しかし、事故から15年後、変化が訪れた。あのボイスレコーダーの音声が公になったのだ。

【ボイスレコーダー、公開】

激しく揺れる機体と最後まで闘った父の記録。

機長(墜落27分前)「気合入れろ。ストール(失速)するぞ」

機長(墜落6分前)「がんばれ」

副操縦士「はい」

機長「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」

副操縦士「コントロールがいっぱいです」

機長(墜落前30秒)「パワー、パワー、フラップ!」

機関士「上げてます!」

機長「あげろ!」

高濱洋子さん「父は本当に最後まであきらめず、最後の一瞬まであきらめず、

頑張ったんですが、本当に無念であっただろう。

最後まで父は頑張ったんだなと、誇りに思わなければいけない、そう思いました」

【遺族に響いた父の声】

ボイスレコーダーに残された父の声。ほかの遺族たちの心にも響いたという。

高濱洋子さん「『本当に最後まで頑張ってくれたんだね』『ありがとう』という言葉を、

ご遺族から頂いた時には、本当に胸からこみ上げるものがあって…。涙が出る思いでした」

「父はボイスレコーダーによって、残された私たち家族を、

ボイスレコーダーの音声という形で、私たち家族を守ってくれたと感じました」


取材中、洋子さんが機長の娘だと知る1人の乗客が話しかけてきた。

洋子さんの目から涙があふれた。


「これからもJALに乗るから、頑張って」


そう声をかけられたという。涙が止まらなかった。

事故から12日で30年。洋子さんにとって8月12日とは-。

高濱洋子さん「父が残してくれたボイスレコーダーを聞き、

新たに、また安全を守っていかなければという、再認識する、そういう一日かなと思います」



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(以下、産経新聞ニュースより)


■「ありふれた日常の輝き、父の命が教えてくれた」


日常の輝きを歌に乗せて-。520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故は12日で30年。

事故で犠牲になった坂本九さん=当時(43)=の長女で歌手の大島花子さん(41)は、

日々を生きる大切さを歌で伝え続けている。

二度と過ごせない父との日常は「何でもない瞬間」にこそきらめきがあったからだ。

昨年末に発表した初アルバムでは父のカバー曲を収録し、父の曲に30年間の思いを重ねて歌った。

11歳の夏。今も忘れられない光景がある。事故前日のことだった。

セミの鳴き声と高校野球の中継が聞こえる中、父と庭掃除をした。

父は「お、見ろ見ろ、暑いけど汗がぽたぽた垂れてくるのが面白いよね」と笑顔。

いつも子供を楽しませようとする父らしい言葉だった。ありふれた日常の一コマだが、

「どんな瞬間でも、それが輝きを放つことがある。父の命から教えてもらった」。

それを伝えるのが歌を歌い続ける理由だ。


歌手デビューから10年以上がたち、初めて制作したアルバムには、

父が作詞作曲を手がけた「親父」を収録した。

事故前年のコンサートで、みんなが知っている「九ちゃんスマイル」を見せず、

真剣な顔で歌う父の姿を見て、子供ながらに涙が止まらなかった。


厳しかった父との日々を息子が遺影の前で懐かしむ内容。

自分は娘ながらも、歌うことで歌詞の中の父を思う息子、

すなわち坂本さん本人に感情移入できる「不思議な歌」という。


「もう直接は対話できないけど、歌いながら父と会話をしている気がする」

現在も心の傷は癒えておらず、御巣鷹の尾根に行くのは怖い。

8月12日も特別な日ではなく、いつか日常として「普通」に過ぎていくようになることを望む。

ただ、それでも父に伝えたい。「自分は今、歌を歌えて幸せです」



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(以下、朝日新聞ニュースより)


520人が亡くなった1985年の日航ジャンボ機墜落事故は12日、発生から30年を迎えた。

墜落現場の群馬県・御巣鷹の尾根では、遺族が早朝から山道を登り、

斜面に点在する墓標や犠牲者を追悼する「昇魂之碑(しょうこんのひ)」に手を合わせた。


せせらぎの聞こえる登山道を、赤田力(りき)さん(32)=東京都港区=は今年も踏みしめた。


母の真理子さん(当時31)があの夏、日航の制服に身を包んだまま空に消えた。

墓標に手を合わせ、心の中で呼びかけた。「お母さんの夢を継いでいくよ」

事故は乗客505人とともに乗務員15人の命も奪った。

真理子さんは乗務員で唯一の「ママさんスチュワーデス」。

乗務の日はうれしそうに家を飛び出し、

2泊3日のフライトから帰るとベッドに飛び込んで「力ちゃん」と抱きしめた。


当時2歳の力さんには、そんな母の記憶がない。

覚えているのは、「うちは日航側だから」とこらえる父雄一さん(60)の姿だ。

乗務員は被害者でもあり、加害企業の一員でもある。「悲しみを胸にしまってきたのでしょう」


母の声もぬくもりも覚えていない力さんに、雄一さんは思い出話を聞かせた。

「スチュワーデスが夢」と語った恋人の頃。フィジーへの国際線での新婚旅行。産後2カ月での復職。

いつしか力さんは飛行機好きになり、飛行機のぬいぐるみで家を飾り、

旅先では空港で飛行機を眺め続けた。毎年、親子で御巣鷹へ登り、パイロットを志した。


墜落現場で見つかった母の近くに、赤ちゃんの亡きがらがあったと聞いた。

左右に激しくダッチロールする機内で、わが子を抱くようにあやしていたに違いない――。



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(以下、読売新聞ニュースより)


乗客乗員520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故は、12日で発生から30年となった。

遺族らは墜落現場の「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)を目指し、早朝から慰霊登山を始めた。


黒仁田幸子さん(67)(鹿児島県姶良(あいら)市)は、亡くなった川上和子さん(当時39歳)の妹。

奇跡的に助かった和子さんの長女・慶子さん(42)の叔母にあたる。七回忌以来、24年ぶりに登った。

「姉ちゃん、千春と慶子は幸せに暮らしているよ。

良いパートナーと子どもに恵まれているので、安心してね」


幸子さんは、和子さんとその夫・英治さん(当時41歳)、

次女・咲子さん(同7歳)の3人の墓標に語りかけ、肩をふるわせながら、木肌をなでた。

慶子さんが、自衛隊のヘリコプターでつり上げられて救助された斜面で、

「ずっとここに来たかった。胸のつかえがとれた」と表情を緩めた。



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(以下、スポーツ報知より)


520人が犠牲となった1985年の日航ジャンボ機墜落事故から12日で30年となる。

127日間にわたって亡くなった方々の身元の確認作業を続けた元群馬県警の飯塚訓さん(78)は、

「遺族に寄り添いたいという思いは当時から全く変わっていません」と語る。

身元確認班長として、最前線に立ち続けた飯塚さんは事故から30年を前に、今、何を思うのか。

自宅は群馬県前橋市の赤城山の麓にある。

居間に飾った孫の写真に目をやると、飯塚さんは、ゆっくりと語り出した。

「この辺りは昔、蛍がたくさん飛んでいましたが、最近は暑くなって蛍もいなくなりました。

事故から七回忌を迎えても、30年たっても、

ご遺族に寄り添いたいという気持ちはずっと変わりません。

変わったのは、周りの景色だけですね」

1985年8月12日、蒸し暑い夜だった。

群馬県警高崎署の刑事官として、捜査1課長らと次に着手する事件について打ち合わせをしていた。

「飛行機が墜落した」。血相を変えて、ベテラン刑事が飛び込んできた。

「墜落場所も分からないまま、署を飛び出しました。

最初は長野説が強かったが、群馬らしいという話になった。

身元確認班長に任命され、群馬県藤岡市の体育館に向かいました」


事故から2日後。警察官168人、医師、看護師とともに、遺体の身元確認作業を行った。

「生存者は4人」とされていたが「時間がたっても、その(生存者の)数は増えませんでした…」。

次々と運び込まれる犠牲者を前に、声を失った。

体育館内は40度を超え、線香の煙で真っ白になる中、確認を続けた。

520人の犠牲者で、遺体状況から、すぐに身元がはっきり分かったのは、

わずか60人にすぎなかった。生後3か月の女の子の右手の中には、

母の着ていた服のボタンが握りしめられていた。


極限状態の中、着衣、血液型、指紋を一致させるため、医師や看護師と連携して一つ一つ確認した。

怒りと悲しみに満ちた遺族を前に「ご遺体を絶対に間違えてはいけない。

遺族の元に何としても返さなくては」との思いを強くした。


「日航の社員は跳び蹴りされ、首根っこを押さえられ、

ひつぎの中に顔を入れられ、土下座させられたりしていた。

ご遺族は警察官も日航の社員も医者も、回し者、敵という感情をお持ちだったと思う。

ご遺体に杉の葉1枚、ついていてもお怒りになられた」


「謝るしかない」と頭を下げ、身元確認につながる手がかりを見つけようと、

遺族との対話を最後まで続けた。

「捜査中は泣かない」と決めていたが、気が付けば、頬を涙がつたう日々。

いつしか周囲から「泣き虫隊長」と呼ばれていた。


「夏休み中で(犠牲者には)15歳以下の子供たちが75人もいた。

ひつぎの近くで『山でパパを見つけてくる』と言ったり、『僕は泣きません』と言った少年もいました」


夏が過ぎ、秋になり、確認作業を終えたのは冬だった。127日間の任務。

終わってこぼれたのは「空虚な涙」だった。


退官から2年後の98年、「墜落遺体」(講談社)を出版した。

講演活動では「命の尊さ」「家族の絆」を子供たちに語りかけている。

自宅には、墜落現場にあった木材で作った慰霊の牌(はい)があるという。

「牌に数珠をかけて、お線香上げながら、原稿を書きました。

ご遺族のお気持ちから、ずっと離れることはありませんから」。

飯塚さんの人生はこれからも「祈り」とともにある。


◆飯塚 訓(いいづか・さとし)1937年2月8日、群馬県生まれ。78歳。

作家志望だったが、日大法学部卒業後、父の勧めで、60年群馬県警の警察官に採用される。

85年県警高崎署刑事官(警視)時代に日航機墜落事故が発生した。

警察署長、警察学校長などを経て96年退官。

「墜落現場 遺された人たち」(講談社)などを出版。



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(以下、時事通信ニュースより)


日航機墜落事故で犠牲となった520人の中には、

宝塚歌劇団出身の女優吉田由美子さん(芸名北原遥子)もいた。当時24歳。

映画やドラマなど活躍の幅を広げ始めたばかりだった。

母公子さん(81)は遺品を大切に保管し由美子さんの部屋もそのままにしてきたが、

30年がたった今年、「体が動くうちに」と整理を始めた。


小学校から高校まで器械体操に打ち込んだ由美子さんは、高校2年で宝塚音楽学校に入学。

歌劇団では1年目から準主役に抜てきされた。

同期で親友だった女優黒木瞳さん(54)とは一緒に旅行を楽しむ仲。

23歳で退団後、映画やCM、ミュージカルなど女優として幅を広げ、主演ドラマも決まっていた。


あの日。横浜市の実家で数日過ごし、都内の自宅に戻るのを公子さんは玄関先で見送った。

由美子さんは知人に会うため大阪行きの日航機に乗り、事故に遭う。

「気を付けなさいよ」「はーい」。振り返った姿が最後になった。

5日後、遺体が安置された体育館で対面した姿はきれいだった。

「救助が早かったら助かったかもしれない。でも本人が一番無念だったでしょう」


10年ほどたってから、ドラマ撮影で由美子さんが訪れるはずだったオーストラリアを旅した。

その後も、宝塚歌劇の舞台「ベルサイユのばら」にゆかりのあるヨーロッパ各地を一人で巡った。

バッグに入れた由美子さんの写真とともに。


毎年一緒に御巣鷹の尾根に登った夫俊三さんは4年前、79歳で他界。

それからは、家族の思い出が残る自宅で一人で暮らしてきた。

由美子さんの部屋は当時のまま。衣類や写真、活躍を伝える週刊誌、宝塚時代のアクセサリー…。

全て大切に保管してきたが、あれから30年。

息子や親族が暮らす都内に転居を決め、2カ月前から少しずつ整理を始めた。


「なかなか進みませんが、体が動くうちにやらないと。

一日も長く人生を全うし、天国で由美子に会ったとき、

お母さんは悲しみに負けずに前向きに生きて頑張ったよ、と言いたいと思います」と静かに話した。



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(以下、読売新聞ニュースより)


乗客乗員520人が犠牲になった1985年の日航ジャンボ機墜落事故から12日で30年を迎える。


墜落現場の「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)の麓を流れる神流川で11日夕、

遺族たちが鎮魂の灯籠流しを行った。


「空から見守っていて下さい」。

約300個の灯籠に鎮魂と安全への願いを書き、

墜落時刻の午後6時56分に合わせて川面に浮かべた。

JR福知山線脱線事故や御嶽山噴火による犠牲者の遺族も訪れ、

事故で亡くなった歌手・坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」を合唱した。


12日は、午後6時から麓の「慰霊の園」で追悼慰霊式が営まれる。



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日航機墜落事故について、何度も綴っていた気になっていたが、

記事にして綴っていたのは2009年の一度だけだった。


先の大戦のことを否応なしに意識する時期であり、

猛暑や台風などによる被害が数多く報じられる時期でもあるからか、

東日本大震災を経験する以前の記事であっても、

命の重みを感じるには十分な内容になっていると思う。


事故から30年。


それぞれの思いを数多く転載したが、当時を知らなくとも、

胸に響いて感じ入ることができるのではないだろうか。











(参照)


日航機墜落事故から24年 - 2009年8月12日過去記事より

http://ameblo.jp/aloha-spirits-yoshi/entry-10318993186.html