なった事があるのを思い出した。
9歳のとき、いま思えば
神経症みたいになった時と
もう一つは親を看取ったあと。
何か底知れぬ不安とか
喪失感を感じたときになるんだな
とは思ってた。
で、解消するためにも
それを味わって実体を知りたいのに、
すごい恐ろしくて。
まあ、分からないんだから
解消できないのは仕方ないと思ってたけど
なぜか、私の長年の謎のヒントと鍵
を握ってる気がしてならなかった。
※追記: チャクラ等とはまた別の話になります。
そしたら先日SNSで流れてきた
OSHOのこの講話にピンときた。
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霊的なハートが開きはじめると
そのさざ波は心臓にまでも及ぶ。
〈中略〉
まず最初に気づくのは、
心臓に起こってきたある奇妙な感覚だ。
ときにはそれは焼けつくようであり、
ときにはそれはほとんど心臓発作の
ようなものであるかもしれない。
〈中略〉
これはいつの時代にも
すべての瞑想者たちに起こってきたことだ。
いつであれ人々が深い瞑想に入ってゆくとき、
それは起こらざるをえない。
霊的なハートが震え、開きはじめ、
花が咲きはじめると、心臓はその震動、
反響をとらえはじめる。
だが、これはすばらしい兆しだ。
それを恐れてはいけない。
まもなく霊的なハートに気づくようになると、
心臓からはすべての兆候が消えてしまう。
最初の兆候は不安感、落ち着きのなさだろう。
何か新しいことが起ころうとしていて、
あなたはそれに慣れていないのだから、
それも当然だ。
もう少しそれに慣れ、
それに調和するようになると、
それが落ち着きのなさではなくて、
これまでに知らなかった
新しい感覚であることがわかってくる。
〈中略〉
もっとそれに慣れ、それに親しむようになると、
あなたは新しい種類の安らぎ、
静けさを感じるようになる。
そしてそこから大いなる愛が起こってくる。
Osho
https://www.facebook.com/OSHOjapanese/
_________________________引用ここまで
私は、ハートの違和感を解析して
無くさないと(癒さないと)いけない
排除して当然の物としてたんだけど
逆なのかもしれない!!
めちゃくちゃ恐ろしい物だけど
実はそこに溶けた方がいいんじゃないかな?
っていう発想の転換があった。
溶けてしまいそうっていう恐怖は
“自我”にしがみついてる証というか
そんな思考の強さに
キリキリ舞いしてるんだから
もう溶けて
手離したらいいんだよ‼︎
って事なんじゃないかな?
と思って、ハートの違和感に
inすることにした。
昨晩やってみたんだけど
なんかちょっといい感じかも。。
もう、最近はこの思考が
“私”としてるものが無くなっても
いいような気がしてきてて
存在証明をしなくても
極端な話、、、
自分を証明するデータを消去しても
いいような気すらしてきてたんだけど…
いや、データは無くしたらダメだけど
空っぽにしたい
って事です。
実は“勉強をしない”を
モットーにしている私は
色々と知らない事が多くて
今さらな事がけっこうある。
子供の頃から
『私は誰?』
という問いかけをしてたんだけど
一部ではそれを探求者とか
求道者と呼ぶらしいと
知ったのはここ2、3年のこと。
私は誰?というのが
長年の謎だったんだけど
もうそろそろ終止符が打てそうな
気がしてます。
理屈や知識じゃなくて
わかるときが。