瓢箪から駒というのだろうか。
福島の原発事故以来続く節電生活。地下鉄の20%本数減にも、ホームの暗さにもすっかり慣れた。当初はなかなか来ない電車に苛つき、薄暗いホームに違和感をもったが、今ではそれが日常と受け入れている。天井の行く先案内板も壁の広告も光を放たず、目立たない。
「だから?So what?」
かえって、これ位の明るさが丁度いい。
僕は地下道を歩くのが嫌いで、出来る限り外を歩くことにしている。例えば、地下鉄の日比谷駅JRの東京駅まで、丸ビルを経由し、ずっと地下を歩いて辿り着けるが、雨でも降らない限り、日比谷で表に出てしまう。太陽を浴びて、風を感じて歩きたいのだ。ところが、ここ最近、気がつけば地下道を歩いている。そこで思った。地下道が不快に感じていたのは、明る過ぎる照明のせいかも知れないと。不必要な明るさは、見ないでいい物、見たくない物まで、洗いざらい見せてしまう。節電のために薄暗くなった地下道は、余計な物を暗さで隠してくれるのだ。もともと地下道は暗いものだから、人間本来の感性に合った丁度いい明るさが、節電により実現したと言える。
だからといって、このままでいいとは思わない。電力に余裕があり、そのうえで明る過ぎない照明を維持しているならいいが、そうではないのだ。あのバカ会社のせいで、これからの季節、我々はとんでもない我慢を強いられるのは、目に見えている。丁度いい明るさだなどと言ってはいられない状況が待っているのだ。
起きてしまったことを、いまさら何を言っても意味がない。責めてみても仕方ない。可能なのかどうか判らないが、出来るだけ早く解決してもらうしかないのだ。危険を冒し、現場で働いているみなさんを応援するしかないのだ。何一つ具体的な話をせず、ただ「一日も早い復興を目指して国民がひとつになり頑張る」などの戯言しかしないリーダーは要らない。一番大変な目に合っている被災地のみなさんに、直接謝罪もしないバカ会社の会長は許さない。こんなことがあってはならないのだが、どうしても想像してしまうのだ。豪華な革張りの椅子に納まって、「何とかしろって言われても、津波でやられちゃったんだから、しょうがないよね。天災だよ、天災」などとのたまっているのではないかと…。

