2011年3月11日、午後2時半過ぎ、僕は豊島区の西池袋にいた。春の彼岸を前に、雑司ヶ谷にある菩提寺へ、塔婆料とお経料、護寺料を納めに行く途中だった。
都電荒川線の「雑司ヶ谷駅」から菩提寺まで、いつもの裏道を歩いていると、突然、道路の右側にあるアパートの駐車場からガタガタという音が聞こえた。駐車場の屋根部分は波形の鉄板なので、風にあおられているのだろうと思った。5メートルほど行くと、そこには法律関係の専門学校があり、入り口のガラスドアがバタバタ動いていた。この時点でも、僕は地震だと気づかなかった。こんなに風が強かったかな?と立ち止まって上を見ると、頭上の電線が揺れている。
次の瞬間、背後で何かが崩れる音がすると同時に、足元が大きく揺れ、初めて地震が起きていることが判った。音のした方へ体をひねりながら、二、三歩よろめいたことから、これは大きいかもと思った。音は左手にある駐車場から聞こえた。敷地内に建つ古い蔵の瓦がずり落ち、路地に散乱している。落下防止のネットがあったため、大事には至らなかったが、もし誰かが歩いていたらと考えると、ゾッとした。
揺れがおさまるまで、僕は頭上の電線を注視しながら待った。表を歩いていて地震を感じたのは、生まれて初めてのことだ。しかも、しっかり踏ん張っていないと、体をもっていかれそうだった。揺れがおさまり、そこから2分ほどの菩提寺へ行くまで、まだ僕はそれほど大事だとは考えていなかった。菩提寺の玄関へ入ると、墓参り用の水桶の水が溢れ、石畳が濡れていた。花瓶が倒れ、上がりぶちは水浸しだ。部屋をのぞくと、床に様々な物が散らばっている。声をかけても誰も出てこない。奥の部屋で女性が何か大声で叫んでいる。一度帰りかけたが、思い直して再度玄関へ入る。今度は寺のお嬢さんが出て来た。こちらが口を開く前に、観音様が倒れたことと、庭の灯籠がふたつ崩れたことを早口で告げ、今日は住職も副住職もみんな出ていて男手がないのにと、泣き出しそうになった。彼女の様子を見て、初めて、かなりの地震だったことを認識した。急いで用事を済ませ、予定していた父の墓参りを省略し、家に戻ることにした。娘が一人で留守番をしているのだ。
都電の停留所へ行くと、スピーカーから運転見合わせのアナウンスが流れていた。復旧には最低2時間かかると言う。ホームから早稲田方面を見ると、さほど遠くない所で、上りと下り、2台の電車が止まっていた。急いで、表通りへ出て、タクシーをさがした。地下鉄も止まっていることはきかなくても判る。
表通りへ出ると、付近の高層ビルから避難した人達が広場に集まっていた。国立演芸場に出ていた妻からの電話がつながり、半蔵門から徒歩で家を目指すと言う。菩提寺をでてから、娘の携帯に電話をかけ続けていたが、一向につながらない。タクシーも来ない。地震直後に、僕は帰宅難民になったようだ。とにかく家に向かって歩きながら電話をかけるが、つながらない。こんな時につながらない携帯電話が、何の役に立つのだろう。都電も地下鉄も止まり、タクシーも来ない。東京という大都市の打たれ弱さを、嫌と言うほど実感した。
西池袋から護国寺まで歩き、上野広小路行きのバスに乗ることにする。護国寺の境内にも、たくさんの人が避難している。交番のお巡りさんにバスの動いていることを確認し、更に先のバス停で待った。この間も電話は通じない。メールを出したが、電話が通じないのにメールが届くはずもないと感じていた。実際、後で確認すると、メールが届いたのは数時間後だった。
ようやく来たバスは、ほぼ満員に近い。この路線は時々利用しているが、こんなに人が乗っているのは見たことがない。バス停毎に、どんどん大量の人が乗ってくる。運良く一番後ろの席に座れたが、まるでインドをバスで移動している気分だった。
根津へ辿り着き、家に向かって歩いていると、近所の家の屋根が崩壊していた。昔、たばこ屋さんだった家は、現在無人のままだ。
家に着くと、留守番をしていたはずの娘が、リュックを担いで玄関から飛び出してきた。彼女は塾へ行く途中、後楽園駅で地下鉄が止まり、徒歩で帰ってきたところだった。バスに揺られていて気づかなかったが、かなり余震があったようだ。家の中に居ては危ないと判断し、訳が判らないまま外へ出ようとしていたらしい。
菩提寺で灯籠が二つ倒れたときいたが、我が家の庭の石灯籠も、見事に崩壊していた。1階の部屋は、茶室の砂壁から砂がこぼれた程度だったが、2階と3階は惨憺たるものだった。どこから手をつけたらいいか判らないほどで、思わず笑ってしまった。もう笑うしかなかったのだ。しかも、ひっきりなしに揺れている。半蔵門から徒歩で帰宅した妻と、3人それぞれに担当を決めて片付けていると、インターフォンが鳴った。浅草演芸場に出ていた妻の仲間が、千葉へ帰ることを諦め、助けを求めてきたのだ。もう一人の娘は、豊洲で働いているが、どうなっているのか連絡が取れない。ようやく電話がつながったのは、9時をまわった頃だった。2時間バスを待ったが乗れず、一度職場へ戻って暖を取っていたらしい。地下鉄の大江戸線が動いているので、月島まで歩き、御徒町へ出て歩いて帰るという。
11時過ぎ、全員揃ったところで、近くのデニーズへ出かけた。いつもはガラガラの店内にテーブル待ちの行列が出来ている。徒歩帰宅の途中で食事をする人、千代田線が動くまで時間を潰そうとする人で、なかなか席は空かない。6人がけのテーブルを一人で占領し、居眠りをしている人も居る。ファミレスは客をたたき起こして追い出すわけにいかないのは判るが、こういう時なのだから、小さなテーブルへ移らせるなど、少しは考えるべきだろう。もし、自分がそういう立場になったとして、一人で大きなテーブルを独占するなど、申し訳なくて、とても出来そうもない。
帰りに下のフロアにあるコンビニをのぞいてみた。
普段はパン類の並ぶ棚だ。
こちらは、弁当やおにぎり、サンドイッチなどの棚。
こういう時はコンビニの棚が空になるというのは、本当だった。
家に戻ったが、僕は気持ちの悪い揺れの続く中、一晩中、眠ることが出来なかった。携帯がつながらない、移動手段がなくなる。いろいろと不便な体験をしたが、東京はまだいい。地震とそれに続く津波で大きな被害を受けた人達のことを考えたら、文句を言ってはいけない。否、文句を言うどころか、面倒だとか疲れたなどと、不機嫌な顔をすることさえ許されない。
無能な政治家のみなさんが、この状況にどう対処するのか。作業服を着てヘリコプターで被災地の上を飛び、意味のない言葉遊びの会議をしている場合ではないのだ。








