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ビックの部屋

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ビック氏は、一切の物理的制約を嫌う「ビッグな実業家」だった。


 彼が構築した大規模なAWSのパイプラインや、日々のPSQLデータベースの運用、そして日経平均やTOPIXの動向を秒単位で予測するアルゴリズムは、世界経済の心臓部と言っても過言ではなかった。


​「私の思考は光の速さだ。しかし、この世界を動かしているハードウェアの処理速度や、ネットワークのわずかな遅延(レイテンシ)が、私の足を引っ張っている。真にビッグな男には、物理法則を超越したインフラが必要だ」


​ そんなある日、彼のオフィスに異端の物理学者が現れ、重厚なジュラルミンケースを開けた。


 中には、青白く脈打つように発光する、ゴルフボール大の未知の鉱石が収められていた。


​「ビック様。これは我が研究所が合成に成功した、周期表に存在しない新元素『クオンチウム』です。この元素は、周囲の電子機器と量子レベルで共鳴し、データ処理における一切の熱や遅延をゼロにする特性を持っています」


​「ほう、遅延がゼロに? まるで魔法だな」


​「これをメインサーバーの横に置くだけで、あなたのクラウド・インフラは無限の処理能力を得ます。市場予測も、複雑なデータベースのダンプも、文字通り『ゼロ秒』で完了するでしょう」


​完全なるデジタル帝国


​ ビック氏はすぐさまその元素を買い取り、自社の最も厳重なサーバールームの中心に安置した。


 効果は絶大だった。クオンチウムの青白い光に照らされたサーバー群は、冷却ファンを回すこともなく、静寂の中で世界中の全データを一瞬にして処理し始めた。


​ ビック氏の予測アルゴリズムは神の領域に達した。NYダウのわずかな変動も、世界中のブロックトレードの動向も、すべて完全に先読みして巨万の富を築き上げた。彼は煩わしいインフラの保守チームを全員解雇し、たった一人で、完璧に自動化された「無敗のデジタル帝国」の頂点に君臨したのである。


​「はっはっは! もうハードウェアの限界に悩まされることはない。私はついに、純粋な情報と数字だけで構成された、最もビッグな存在となったのだ!」


​輝きの減衰


​ しかし、半年が過ぎた頃。


 完璧だったはずのシステムに、わずかな遅延が生じ始めた。予測システムがコンマ一秒遅れ、データベースの同期にエラーのログが混じるようになったのだ。


​ 慌ててサーバールームへ駆けつけると、クオンチウムの青白い光が、今にも消え入りそうなほど弱々しく明滅していた。


​ ビック氏はすぐさまあの物理学者を呼び出し、怒鳴りつけた。


「おい、話が違うぞ! 元素の力が切れたじゃないか! 私の数兆円のインフラが止まったらどうしてくれる!」


​ 物理学者は、冷や汗を拭きながら答えた。


「申し訳ありません、ビック様。実は最近の研究で、クオンチウムの重大な特性が判明しまして……。この元素は、純粋なデジタル空間だけではその量子状態を維持できないのです」


​「維持できない? なら、どうすればいい! 電気か? ウランか?」


​「いえ、この元素がデジタル空間に干渉するためには、対極にある『極めて泥臭く、非効率なアナログの運動エネルギー』を触媒として吸収し続けなければならないのです。しかも、そのインフラから最も恩恵を受けている『所有者自身の生体エネルギー』でなければ、認証が弾かれてしまいます」


​「なんだと……? 具体的にどうしろと言うんだ!」


​ 物理学者は、サーバールームの片隅から、木と鉄でできた古めかしい「手回しのクランク車輪」を引っ張り出し、それを元素の格納ケースにガチャンと接続した。


​「……つまり、ビック様ご自身の手で、このクランクを力いっぱい回し続けていただく必要があります。あなたが汗水垂らして物理的な回転を生み出している間だけ、この元素は輝きを取り戻し、あなたのデジタル帝国を維持します」


​アナログな支配者


​「ふざけるな! この私が、そんな中世の工場労働者のような真似ができるか!」


 ビック氏は拒絶したが、その瞬間、彼の手元の端末から「AWSサーバー・ダウン」「日経平均予測システム・停止」という致命的なアラートが鳴り響き、資産が秒単位で億単位の赤字へと転落し始めた。


​「うおおおおっ!」


 ビック氏は悲鳴を上げ、高級なスーツのジャケットを脱ぎ捨てて、クランクのハンドルに飛びついた。


​ ギシッ、ギシッ、ギシッ!


​ 彼が必死に歯を食いしばって重い鉄のクランクを回し始めると、クオンチウムは再び眩い青白い光を放ち、サーバー群は瞬時に復旧した。莫大な利益が再び流れ込み始める。


​「よ、よし……! これでいい! しかし、いつまで回せば……」


​「回し続ける限り、です。手を止めれば、数秒で帝国は崩壊します」


 物理学者は深々と一礼し、サーバールームを去っていった。


​ それから数年後。


 ビック氏は、今もなお世界経済を牛耳る「絶対的な実業家」として、社会の頂点に存続し続けている。


 世間の人々は、彼を「すべてを自動化し、指先一つ動かさずに世界を操る優雅なビッグ・ボス」として崇め、連日のようにメディアが彼の不在の社長室を映し出している。


​ しかし、その実態を知る者は誰もいない。


​ 冷暖房の効いた薄暗いサーバールームの奥深く。


 世界で最も富を持つその男は、汗でドロドロになったシャツをまとい、手のひらに無数のマメを作りながら、今日も血走った目で、ギシッ、ギシッ、と重い鉄のクランクを回し続けている。


​「私は……私はビッグな男だ……! 世界で一番、効率的で……スマートな男なんだぞ……!」


​ 最先端のAIとクラウド・インフラがもたらす天文学的な利益。


 それを支えているのは、世界で最も泥臭く、誰よりも過酷な「手作業」から逃れられなくなった、一人の男の果てしない肉体労働だったのである。