今週から始まった大相撲、夕方のTVにポッカリと穴が開いた空しさを覚える。
八百長相撲だ、無気力相撲だ 協会のガヴァメントの問題だ 相撲の改革だ と学
識者と云うお方は喧しことだ。
今日もTVで 「相撲はスポーツだ、改革しなくては国民は附いてこない」 と宣って
いる御仁がいた。
相撲の発祥について、ここでは述べまい。(興味ある方は 相撲の歴史
、相撲の変遷
)
髷を結い、廻しを締めて、土俵を塩で清め、四股を踏み、仕切りを繰り返し
意気が合った処で、立合う。 この数分の間に力士の肌は、桜色に紅潮して行く。
土俵に緊張に覆われ、観衆は寂として凝視するこの一時こそ相撲の醍醐味である。
他のスポーツでは見られぬ、日本文化の伝統美であり、芸術である。
江戸中期より、相撲巡業は、”興行”と言われ、今日に至っても 初場所興行と云うように称さ
れている。 他のスポーツのように開催とは言わないし、ワールドカップ興行とも言わない。
日頃鍛えた技を競う取り組の緊張を、行事、呼び出し、土俵入り等で、間と艶やか
さでほぐし、観衆を満足させる演出は、歌舞伎、浄瑠璃の興行に通ずるものがある
八百長、無気力相撲と眉間に皺を寄せて高言のたまうが、
水泳でも、予選で力をセイブして、決勝に備えるではないか。
彼の純情の塊の、高校野球でさえ、力の差があれば、メンバーを落として、力の温存を図るで
はないか。
これらはスポーツにおける作戦であって、これを無気力試合と云うものは誰も居らない。
相撲愛好家は、相撲の世界も社会の縮図であって、時に武士の情けもでるものと
先刻承知で、相撲の流れの一つと興味を持って興行を見て楽しんでいるのだ。
世間に、物事を滞りなく進めるために根回しすることも一つの知恵である。
時に、政治とカネの様に、銭がついて来ることもあるようだ。
これを誰も八百長とは言わなし、慣習だと認めている。
大の男に、携帯電話の持ち込み禁止をしたり、支度部屋に監視人を置いたり、
果ては、土俵に監視カメラを設置したり、まるで悪戯児扱いで、力士を全く信用して
いない。
一定の型に嵌めることが、秩序であり教育であると思いこんでいるのは、未熟と言
わざるを得ないし、これが日本伝統の相撲であると言いたいのかと嘆かざるを得な
いのである。
漱石の、『智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ』
にならない様に、 皆大人になることだ。